南河内に田舎有り。大阪の難波や天王寺・阿倍野からは本当に20分程度の距離に、八尾市や柏原市があります。随分と市街化が進んだというものの、まだまだ緑も多く、古き良き河内の雰囲気が随所に残されています。「こつまなんきん」と言うべき女性も、心なしか他の河内地方に比べると多く見られるように思われます。 しかしながら、柏原駅前では再開発という名の文化的破壊が進み、一部「河内やのおー。」という雰囲気が壊れてしまっているのは残念なことです。それに合わせてか、近鉄堅下駅付近でも、ちょいと一杯の酒屋が随分と姿を消してしまっていて、我が友人のかつての憩いの場が年々少なくなっているようです。それでも駅前周辺の商店街は、十分に昭和の雰囲気を残しており、「おう!」などと言って今東光師が姿を現してもおかしくはない。
この周囲には山の中腹までぶどう園が作られ、もう少し大規模であるならば、フランスのシャンパーニュあたりの光景にも似るのではと思われますが、ご多分に漏れず住宅開発や産廃とのせめぎ合いの場にもなっており、「世界遺産」とはいきません。河内ワインの生産でも知られ、その販売所では試飲もできますが、まあ「飲んだで」というところ、ワインの味の判らぬ身は先を急ぎます。
ワイン工場から少し南下し、生駒山地が大和川に落ち込む辺りに太平寺という集落があります。太平寺二丁目あたりは、昔の集落の形がほとんどそのままに残っています。当たり前といえば当たり前ですが、道などは随分と入り組んでいて自動車は入りにくい、ああそういえば、昔の集落は皆々こんな感じであったなあ、再開発等という景観破壊が進む中で、よくぞこのように残ったものだと感心します。この集落の東の端には清浄泉なる湧き水(節理というそうですが、よく解らん。)があります。この湧き水もまた、弘法大師の錫杖の賜ということになっています。
太平寺の集落
この湧き水辺りから横の石(いわ)神社周辺は智識寺という寺の跡で、奈良時代、聖武天皇がこの寺の毘盧遮那仏像を見て、大仏の造立を発願したことはよく知られています。寺はもう跡形もありませんが、神社は地域の人に尊崇されていることはよくわかります。駐車場にある楠の大木も見事です。この神社には昼もなお灯りが点されていて近隣の尊崇を受け続けていることが解ります。
石神社
ここよりさらに南下したときに、突然大きな墓場があり、「木沢長政墓」の文字が目に飛び込んできます。そういえば、この辺りは1542年の河内太平寺の戦いの舞台でもあり、三好長慶が父の敵[かたき]である木沢長政を撃破したところです。木沢長政、ここで、討ち取られることがなければ同じ「長政」でも浅井長政や黒田長政の後塵を拝することが無かったのにと少々可哀想に思いますが、生きているときに会っていれば嫌な奴だったかも知れません。
太平寺より、東南に進むと高井田の横穴古墳群があります。横穴が連なる様はちょっと高級な分譲墓地というところ、頂上の高井田山古墳は竪穴で、火熨斗(当時のアイロン)を始めとする副葬品が出土した状況で展示されています。全体が公園になっていますが、夜はちょっと怖そうです。
こういう横穴がいっぱいある。
大和川を渡り、根性があれば後藤又兵衛戦死の地である玉手山も近いのですが、ここは松岳山古墳、河内国国分寺址に向かいます。松岳山古墳は、竪穴の蓋が露出した形で残っていますが、両脇に立っている大きな石は何なのか今ひとつ判らないようです。ここは、船王後(秦氏や東漢氏を古い渡来系氏族とすると、6世紀後半から活躍を始める新しい渡来系氏族が船氏や白猪氏でこれらの祖が烏羽の表を見事に読んだことで知られる王辰爾、その孫に当たる。)の墓誌が出土したとされる古墳でもあります。国分神社の境内にあり(というより墳丘の麓に神社がある)、神社の方に挨拶をして墳丘部に至れば、深遠とした空気は古代そのままの様相を示しています。
河内国国分寺址は、今は「へえ-こんなところに。」というところですが、考えてみれば、この大和川に沿った地域は古代のメインストリートですから位置的には納得できます。河内国の国衙もそう遠くない。
この辺りまで来ると二上山の雄嶽が大きく迫ってきます。河内堅上駅までの道は田畑の畦道のような感じで、古き良き雰囲気がまだまだ残っています。この駅より奈良の王寺に出るのも良いのですが、酒飲みは天王寺か難波に向かうべきでしょう。
トップの写真は河内国国分寺塔跡 (08年6月に記したものに加筆して再録)
この周囲には山の中腹までぶどう園が作られ、もう少し大規模であるならば、フランスのシャンパーニュあたりの光景にも似るのではと思われますが、ご多分に漏れず住宅開発や産廃とのせめぎ合いの場にもなっており、「世界遺産」とはいきません。河内ワインの生産でも知られ、その販売所では試飲もできますが、まあ「飲んだで」というところ、ワインの味の判らぬ身は先を急ぎます。
ワイン工場から少し南下し、生駒山地が大和川に落ち込む辺りに太平寺という集落があります。太平寺二丁目あたりは、昔の集落の形がほとんどそのままに残っています。当たり前といえば当たり前ですが、道などは随分と入り組んでいて自動車は入りにくい、ああそういえば、昔の集落は皆々こんな感じであったなあ、再開発等という景観破壊が進む中で、よくぞこのように残ったものだと感心します。この集落の東の端には清浄泉なる湧き水(節理というそうですが、よく解らん。)があります。この湧き水もまた、弘法大師の錫杖の賜ということになっています。
太平寺の集落
この湧き水辺りから横の石(いわ)神社周辺は智識寺という寺の跡で、奈良時代、聖武天皇がこの寺の毘盧遮那仏像を見て、大仏の造立を発願したことはよく知られています。寺はもう跡形もありませんが、神社は地域の人に尊崇されていることはよくわかります。駐車場にある楠の大木も見事です。この神社には昼もなお灯りが点されていて近隣の尊崇を受け続けていることが解ります。
石神社
ここよりさらに南下したときに、突然大きな墓場があり、「木沢長政墓」の文字が目に飛び込んできます。そういえば、この辺りは1542年の河内太平寺の戦いの舞台でもあり、三好長慶が父の敵[かたき]である木沢長政を撃破したところです。木沢長政、ここで、討ち取られることがなければ同じ「長政」でも浅井長政や黒田長政の後塵を拝することが無かったのにと少々可哀想に思いますが、生きているときに会っていれば嫌な奴だったかも知れません。
太平寺より、東南に進むと高井田の横穴古墳群があります。横穴が連なる様はちょっと高級な分譲墓地というところ、頂上の高井田山古墳は竪穴で、火熨斗(当時のアイロン)を始めとする副葬品が出土した状況で展示されています。全体が公園になっていますが、夜はちょっと怖そうです。
こういう横穴がいっぱいある。
大和川を渡り、根性があれば後藤又兵衛戦死の地である玉手山も近いのですが、ここは松岳山古墳、河内国国分寺址に向かいます。松岳山古墳は、竪穴の蓋が露出した形で残っていますが、両脇に立っている大きな石は何なのか今ひとつ判らないようです。ここは、船王後(秦氏や東漢氏を古い渡来系氏族とすると、6世紀後半から活躍を始める新しい渡来系氏族が船氏や白猪氏でこれらの祖が烏羽の表を見事に読んだことで知られる王辰爾、その孫に当たる。)の墓誌が出土したとされる古墳でもあります。国分神社の境内にあり(というより墳丘の麓に神社がある)、神社の方に挨拶をして墳丘部に至れば、深遠とした空気は古代そのままの様相を示しています。
河内国国分寺址は、今は「へえ-こんなところに。」というところですが、考えてみれば、この大和川に沿った地域は古代のメインストリートですから位置的には納得できます。河内国の国衙もそう遠くない。
この辺りまで来ると二上山の雄嶽が大きく迫ってきます。河内堅上駅までの道は田畑の畦道のような感じで、古き良き雰囲気がまだまだ残っています。この駅より奈良の王寺に出るのも良いのですが、酒飲みは天王寺か難波に向かうべきでしょう。
トップの写真は河内国国分寺塔跡 (08年6月に記したものに加筆して再録)
この界隈の酒は、やはり河内ワインです。小生は高いワインなど飲んだことがありませんが、安物のフランスワインも、ドイツの白ワインも、チリワインも、河内ワインも、もうひとつおまけに丹波ワインも全く違いがわかりません。となると、はるばると海を越えてまでフランスのものを運んでくる必要もないでと思っています。
奈良の大仏の原型が、河内の寺にあるとは知りませんでした。昔、「大仏開眼」(衣笠貞之助監督)と称する映画がありました。権力争いの涯に大仏を完成させる内容でしたが、2人の絵師に大仏設計のコンペをさせて、長谷川一夫が入選します(当然です)。敗れた(これも当然です)植村謙二郎の悔しそうな顔が忘れられません。京マチ子の妖艶さが中々のものでしたが、最後は悲運に終わったと記憶しています。セットで実物大の建立場面を作り、かなり迫力のある映画でした。
河内徘徊とは無関係のコメントになり深謝です。地元にはかなり強烈な銘酒がありそうですが・・・。