京都市西北部の宇多野福王子の交差点を周山の方に向かうと、主だった集落は高雄・中川(但し現在はトンネルをとおるので集落内は通らない)・小野郷までが山城国で、笠トンネルを抜けて細野に入ると丹波の国です。中川トンネルを抜けたところに杉坂口というバス停があり、右に曲がって杉坂の集落、そこから約3㎞ほど入ったところに真弓の集落があります。真弓は持越峠に依って雲ヶ畑と通じ、縁坂峠によって大森中町と結ばれていますが、縁坂峠には自動車は入れません。
8月の下旬、3年ぶりに岩屋不動に参拝しました。北山山中の聖地中の聖地である此の寺には人の心を惹きつける何かがあり、ここ数ヶ月「近いうちに行かねば」と思っていたのですが、昔よく利用した「出町発10時40分」のバスが無くなり、小野郷から大森、薬師峠を越えて行くルートはカンカン照りの小野郷~大森東間の1時間を考えるとちょっと気が重い。ということで途中の離合がうるさいけれども、ここは自動車やなと一挙に軟弱人間になったのであります。
岩屋不動志明院は写真撮影は厳禁、山門付近だけを写すのも未練がましいので、写真は一切ありません。五月にはシャクヤクで知られるこの寺ですが、本日は小生のみ。近年パワースポットなる言葉が大流行していますが、京都市内でここに勝る処は他にはないでしょう。しかもその気たるや清浄な上にも清浄(このあたりあまり宣伝して人が増えるのもうっとおしいし微妙)。参拝後には麦茶と茶菓をめぐんでいただきました。
御住職はかつて鴨川ダムの建設を阻止し、近時鴨川条例の制定に尽力、長年にわたって鴨川の水源地帯を守ってこられた方です。諸兄、三条大橋や四条大橋の下を流れる鴨川の水の清きは決して自然に守られているのではないことを知るべし。現に鴨川上流部賀茂川(あーややこしい)流域は産廃施設だらけです。新たな産廃施設の建設にストップをかけているのも鴨川条例、一部の革新勢力はこれらの環境問題を政治問題として利用しようとしましたが、それをも押さえ込んで目的を果たすまでには大変なご苦労があったと思います。御住職には「ダムと和尚」という著作もおありです。この御住職、不思議なことに小生が桟敷ヶ岳に登り、薬師峠から下ってくるときには必ずお会いします。以前に土砂崩れで雲ヶ畑街道が通行停止になったときに「岩屋橋まで下りてもバスは来ないが砂ヶ瀬あたりまでは来ているから頑張って歩きなさい」と励まして下さったのも御住職でした。志明院といえば「物の怪話」ばかりが有名なのですが、これは「司馬遼太郎・街道を行く・洛北諸道」の影響でしょう。けれども鴨川源流の保護に志明院の果たしている役割に触れる人は少ないようなので敢えて記した次第であります。
この雲ヶ畑から持越峠を越えたところが真弓の集落です。大昔は雲ヶ畑で死人が出ると集落内での埋葬は認められず、真弓へと死体を運んで埋葬したという伝承が残り、座棺を担ぎ、或いは肩引きの車に寝棺を載せて葬列が静かに進んだ峠でありますが、今は山仕事の人以外はあまり利用されぬ道となったようです。雲ヶ畑における埋葬の禁は天皇のいらっしゃる京都に鴨川の水を通じて死穢を運ぶことを防ぐためだとの説明が一般的ですが、「それだけかな?」と長年思っています。ただ、まだ合理的な説明を得るには至っていません。持越峠も車を止めて写真を撮る精神的余裕がなかったので写真は無し。
故小畑登先生がお書きになった「若狭街道」についての一文によると(この文を得るにあたってはmfujino様に感謝!)、かつて真弓は街道の宿ごとに整備されている問屋場の如き施設に加えて、旅館も数件あり、さらに妓楼までもがある賑やかな町であったということです。若狭方面から来た人々は大森中町から縁坂峠を越えて、「やれやれ真弓だ」という気分だったのでしょう。
中川小学校真弓分校跡
また、これからボチボチと出回る松茸は言わずと知れた高級食材ですが、国内最高の松茸は真弓の白松茸といわれています。けれどもこれは山からあがる量がものすごく少ないので、名物とは為り得ないようです。この周囲の山々も例の如く松枯れが進んでいますから、もはや真弓の白松茸自体も幻となっているかも知れません。
愛嬌のある二宮金次郎
今の真弓はドン突きのドン突き集落となってしまいました。美山町や旧京北町のどこが不便だといっても多くの集落にはコミュニティバスが来ます(本数は少ないが)。けれどもこの真弓や大森は公共輸送手段はゼロです。これらの地域は早々に京都市内に編入されたため、地域のコミュニティバスという発想自体からも取り残されているのです。水尾もまた然り。しからば、京都市は市バスを走らせるべきでしょうが、国道162号線でも高雄止まりとして、中川にすら行かない市バスにこれを期待するのは難しいようです。このあたりのことは、非常に微妙で花背や大森、真弓などが一つの地方公共団体を形作っていれば、所詮はそういう地方公共団体は消え失せる運命であったとしても、それまでに○○ふるさとバスのようなものが運用され、それは京都市に編入されても続いていたように思えるのです。
ただ、かつては真弓にも国鉄バスが走っていましたから、その時点では京都市に編入する以外の選択肢は考えられなかったと思われます。国鉄バスの後身であるJRバスは今や周山までの運用も止めようとしているのではないかと疑える部分があります。かつては美山の鶴ヶ岡まで行ったものが、丹波上川までとなり、今は周山まで。採算を考えると栂尾止まりにしたいのではないかと思われます。万が一、JRバスの運行が無くなった場合、今や京都市右京区京北でありますから、市バスは来るのでしょうか。真弓集落には商店は一軒もなく、郵便局も何もありませんから、住民は車がなければ生活していけません。
残暑と言っても夏そのものの暑さの中、この真弓集落内を歩いていると蝉の声、鳥の声、何処かの家でかけている掃除機の音以外は何も無く、場面場面にに時間自身が張り付いているかのように思われます。真弓八幡の由来になったであろう神社があるように思うのですが、そういう状況下で小生自身もまた景色の一要素として立ち止まらねばならぬようです。
縁坂峠方面
真弓には何人かの知り合いがいますが、その家を訪ねたことはありません。今目の前にある集落、この村の中の何処かで現に生活をしているのかどうかも解りません。いずれかの家に入り、聞いてみればいいことですが、今日はこのまま去るのが良いように思えました。マユミの木がたくさん生えているかどうかを確認したいのですが、どれがその木なのかが解りません。近いうちに「歩く植物図鑑」を連れてこなければいけません。
縁坂峠から真弓に入る
持越峠といい、真弓集落といい、大昔に氷室方面から歩いてきたことがあります。体力的には昔とそう変わらぬと威張っている小生ですが、今回車で峠を越えてみると、「昔の自分は偉かったんだなあ(詠嘆)」と思い、そう思っては「いかん!これは老化だ」とその思いを振り捨てる、杉坂口に出るまでの車の中ではそんなことばかりを考えました。「今日はおとなしく周山ビールを買って帰って家で飲も。」、こやつも老化なのかな。
8月の下旬、3年ぶりに岩屋不動に参拝しました。北山山中の聖地中の聖地である此の寺には人の心を惹きつける何かがあり、ここ数ヶ月「近いうちに行かねば」と思っていたのですが、昔よく利用した「出町発10時40分」のバスが無くなり、小野郷から大森、薬師峠を越えて行くルートはカンカン照りの小野郷~大森東間の1時間を考えるとちょっと気が重い。ということで途中の離合がうるさいけれども、ここは自動車やなと一挙に軟弱人間になったのであります。
岩屋不動志明院は写真撮影は厳禁、山門付近だけを写すのも未練がましいので、写真は一切ありません。五月にはシャクヤクで知られるこの寺ですが、本日は小生のみ。近年パワースポットなる言葉が大流行していますが、京都市内でここに勝る処は他にはないでしょう。しかもその気たるや清浄な上にも清浄(このあたりあまり宣伝して人が増えるのもうっとおしいし微妙)。参拝後には麦茶と茶菓をめぐんでいただきました。
御住職はかつて鴨川ダムの建設を阻止し、近時鴨川条例の制定に尽力、長年にわたって鴨川の水源地帯を守ってこられた方です。諸兄、三条大橋や四条大橋の下を流れる鴨川の水の清きは決して自然に守られているのではないことを知るべし。現に鴨川上流部賀茂川(あーややこしい)流域は産廃施設だらけです。新たな産廃施設の建設にストップをかけているのも鴨川条例、一部の革新勢力はこれらの環境問題を政治問題として利用しようとしましたが、それをも押さえ込んで目的を果たすまでには大変なご苦労があったと思います。御住職には「ダムと和尚」という著作もおありです。この御住職、不思議なことに小生が桟敷ヶ岳に登り、薬師峠から下ってくるときには必ずお会いします。以前に土砂崩れで雲ヶ畑街道が通行停止になったときに「岩屋橋まで下りてもバスは来ないが砂ヶ瀬あたりまでは来ているから頑張って歩きなさい」と励まして下さったのも御住職でした。志明院といえば「物の怪話」ばかりが有名なのですが、これは「司馬遼太郎・街道を行く・洛北諸道」の影響でしょう。けれども鴨川源流の保護に志明院の果たしている役割に触れる人は少ないようなので敢えて記した次第であります。
この雲ヶ畑から持越峠を越えたところが真弓の集落です。大昔は雲ヶ畑で死人が出ると集落内での埋葬は認められず、真弓へと死体を運んで埋葬したという伝承が残り、座棺を担ぎ、或いは肩引きの車に寝棺を載せて葬列が静かに進んだ峠でありますが、今は山仕事の人以外はあまり利用されぬ道となったようです。雲ヶ畑における埋葬の禁は天皇のいらっしゃる京都に鴨川の水を通じて死穢を運ぶことを防ぐためだとの説明が一般的ですが、「それだけかな?」と長年思っています。ただ、まだ合理的な説明を得るには至っていません。持越峠も車を止めて写真を撮る精神的余裕がなかったので写真は無し。
故小畑登先生がお書きになった「若狭街道」についての一文によると(この文を得るにあたってはmfujino様に感謝!)、かつて真弓は街道の宿ごとに整備されている問屋場の如き施設に加えて、旅館も数件あり、さらに妓楼までもがある賑やかな町であったということです。若狭方面から来た人々は大森中町から縁坂峠を越えて、「やれやれ真弓だ」という気分だったのでしょう。
中川小学校真弓分校跡
また、これからボチボチと出回る松茸は言わずと知れた高級食材ですが、国内最高の松茸は真弓の白松茸といわれています。けれどもこれは山からあがる量がものすごく少ないので、名物とは為り得ないようです。この周囲の山々も例の如く松枯れが進んでいますから、もはや真弓の白松茸自体も幻となっているかも知れません。
愛嬌のある二宮金次郎
今の真弓はドン突きのドン突き集落となってしまいました。美山町や旧京北町のどこが不便だといっても多くの集落にはコミュニティバスが来ます(本数は少ないが)。けれどもこの真弓や大森は公共輸送手段はゼロです。これらの地域は早々に京都市内に編入されたため、地域のコミュニティバスという発想自体からも取り残されているのです。水尾もまた然り。しからば、京都市は市バスを走らせるべきでしょうが、国道162号線でも高雄止まりとして、中川にすら行かない市バスにこれを期待するのは難しいようです。このあたりのことは、非常に微妙で花背や大森、真弓などが一つの地方公共団体を形作っていれば、所詮はそういう地方公共団体は消え失せる運命であったとしても、それまでに○○ふるさとバスのようなものが運用され、それは京都市に編入されても続いていたように思えるのです。
ただ、かつては真弓にも国鉄バスが走っていましたから、その時点では京都市に編入する以外の選択肢は考えられなかったと思われます。国鉄バスの後身であるJRバスは今や周山までの運用も止めようとしているのではないかと疑える部分があります。かつては美山の鶴ヶ岡まで行ったものが、丹波上川までとなり、今は周山まで。採算を考えると栂尾止まりにしたいのではないかと思われます。万が一、JRバスの運行が無くなった場合、今や京都市右京区京北でありますから、市バスは来るのでしょうか。真弓集落には商店は一軒もなく、郵便局も何もありませんから、住民は車がなければ生活していけません。
残暑と言っても夏そのものの暑さの中、この真弓集落内を歩いていると蝉の声、鳥の声、何処かの家でかけている掃除機の音以外は何も無く、場面場面にに時間自身が張り付いているかのように思われます。真弓八幡の由来になったであろう神社があるように思うのですが、そういう状況下で小生自身もまた景色の一要素として立ち止まらねばならぬようです。
縁坂峠方面
真弓には何人かの知り合いがいますが、その家を訪ねたことはありません。今目の前にある集落、この村の中の何処かで現に生活をしているのかどうかも解りません。いずれかの家に入り、聞いてみればいいことですが、今日はこのまま去るのが良いように思えました。マユミの木がたくさん生えているかどうかを確認したいのですが、どれがその木なのかが解りません。近いうちに「歩く植物図鑑」を連れてこなければいけません。
縁坂峠から真弓に入る
持越峠といい、真弓集落といい、大昔に氷室方面から歩いてきたことがあります。体力的には昔とそう変わらぬと威張っている小生ですが、今回車で峠を越えてみると、「昔の自分は偉かったんだなあ(詠嘆)」と思い、そう思っては「いかん!これは老化だ」とその思いを振り捨てる、杉坂口に出るまでの車の中ではそんなことばかりを考えました。「今日はおとなしく周山ビールを買って帰って家で飲も。」、こやつも老化なのかな。
岩屋不動志明院の別名は、密教最後の修行寺とか幽霊が見られる寺などと聞いたことがありますが、やはり石楠花の咲く寺として有名なのでしょうか。下記の如きエッセイは如何なものなのでしょう。やはり眉唾に思えますが、ビールの肴(不味くなるかも知れませんが)夏の夜咄に挙げてみました。削除して頂いて結構です。謝々。
>司馬遼太郎氏が、この寺の茶室で泊めてもらったときの体験を書いている。
寝につくや、三方の障子が不意にガタガタと鳴りだして、とても寝ていられない。地震でも突風でもないのに、障子だけが激しく音を立てて揺れるのである。障子を開けて縁側に出てみると、誰もいない。小首をかしげて寝床に戻ると、また鳴りだす。
そのくり返しが続くので、たまらなくなって障子を開け放しておくと今度は屋根が鳴りだす。小童が屋根に登って四股を踏んでいるように、ドスン・・・ドスン・・・と響くのである。姿を見た人は誰もいない。司馬さんは、若い写真家と二人連れだったが、姿を見せぬ妖怪は
ついに一睡もさせてくれなかったという。「信じられないなら行って見よ」と司馬さんは
書いているが、それはまさしく事実であって、同様の経験をした人は他にも大勢いる。
私もその一人だ。
私が泊まった夜は、障子は鳴らなかったが、寝ようとすると、枕元の障子がスーと開く。
誰かがのぞきに来たのかと思って、そちらに目を凝らしていると、また静かにスーと閉まる。
こわごわ這いだして行って、そっと障子を開けてみるが、誰もいない。やれやれと思って床に入ると、またスーと開く。とても落ちついて眠れるものではなかった。 くたびれ果てて、うつらうつらしかけると、天井裏をミシッ、ミシッと歩き回る音がする。
「もう相手にせぬぞ」と思っていると、ドスーンと天井が鳴る。凄い音だ。
志明院の妖怪は、室町時代に記録された寺伝の古文書にも出ていて、昭和の戦後もまだ
生き続けていたのである。
地元の雲ケ畑の人たちにとって、この寺に妖怪が棲んでいることは常識になっていたらしい。<「志明院の怪」(「山本素石の本3/山釣り夜話」筑摩書房)
かつて吉野の民宿で、寝ているときに天井裏でガサゴソと音がして「さてこそ」と色めいたことがありましたが、朝になってご主人に「ムササビですわぁ」と言われたことがありました。
帰路杉坂を通りましたが、杉坂も随分と寂しくなった感じです。道風神社も良い雰囲気ですね。
故小畑登先生は京都と若さを結ぶ街道や峠をかなり歩かれました。休みになると心やすい人に「山に行こう」と誘われたそうですし、山で道に迷われたこともあるそうです。また「先生これ以上行ったら遭難しますよ」と道無き道を前に進まれる先生の前進を止めたと一緒に歩いた女性の感想を聞いたこともあります。ただ一つ気になることがありまして、gunkanatagoさまに読んで頂いている著作には金久さんの「北山の峠」の影響が大きいということです。しかし小畑登先生は金久さんが歩かれていないところも歩かれています。
我が夢は、この小畑・金久両氏が歩かれた以上のルートを歩くことです。勿論京都と若狭の間の山域に限定しての話ですが。特に廃道になって久しい道も探索して記録に残しておくことも意味があるのではと考えています。ただ廃道になった道を探し当てて辿ることは並大抵のことではありません。これには資料をあたりGPSでの位置同定をしながらという先端技術も活用しないといけないだろうと考えます。
真弓の木ですが2008-8-25の我がブログにその写真を載せています。縁坂峠を越えた時の話ですが、そこで聞いた「店」という屋号が残っていること、田地田畑の地主さんが地元以外の人になっていることと博打の話、首無し地蔵と博打の関係、そういったものがあること自体が昔の街道を往来する人が多かったことを物語っていると思います。一昔前は林業という経済力があったのですが、その時に次の手を打たなかった里の現状であるといえばそれまでですが、この鄙びた姿そのものが売りになる時代が来るかもしれません。キーワードは、若き夫婦が定住出来るか、ということだと考えます。これは京北についても同じ事だと認識しています。
しかし、真弓には古き歴史があり、歴史研究には未開発の地かもしれません。この地に残る古文書を漁ればすごい発見があるかもしれません。我が夢は今の70・80歳以上の尊命の方の昔話を聞くことです。地道に努力されているお爺ちゃん(こう言ったらおこられるかしら、、)も知っていますので一度gunkanatagoさまを交えてご一緒に話が出来たらという希望もありますが、興味ありますか?
志明院ですが、石楠花を売り物にしていますが(これって変な表現ですが、、)あんなの八丁や片波界隈の石楠花を見たら石楠花じゃねえ、って私は感じますが、まあこれは寺院を維持する為にも理解を示しましょう。ご住職に直接お会いしてお話しを聞かせて頂いてから判断しなければならないでしょう。
ただ今回賀茂川源流地を守るのに尽力されているという私が知らなかった面を教えて頂きありがとうございました。実は私、ご住職のちょっとマイナス面の話を聞いていて悪い印象を持っていたものですから、、
志明院の御住職はいわば「やり手」のひとですから、敵も多いことでしょう。みんなに「ああ、ええおじゅっさんや」と言われているだけの人ならば今ごろは鴨川ダムができていたのではと思います。司馬遼太郎と常照皇寺の関係のようなものではないでしょうか。小生なども熱狂的な司馬ファンだったころには常照皇寺に意味不明の敵意を持っていたことは確かです。今は常照皇寺のファン=光厳上皇のファン(軽薄ですが)です。
金久さんや小畑先生以上に歩く、壮大な計画です。その何回かにお供できるならこんなに嬉しいことはありません。さしあたりブログで述べておられた河原峠ですね。小生は一度余野から茶呑峠を目指して迷い、例によって両手両足運動に陥ったことがあります。射撃場の建設と果樹園の建設で入り口が解らなくなっていました。是非お願い申し上げます。最近の山用のGPSは使ったことはありません。湾岸戦争の時に英軍の戦車隊が使っているのを見て、衝動買いしたことがあります。けれども、とても山で使える代物ではありませんでした。あの当時はメチャメチャ高かったです。今は友人の家の押入に眠っているはずです。
「捨て去られていると言っていい様な地域現状」、まさにその通りだと思います。けれども京都市も山主からの納税で潤った時期があったはずです。とにかく公共輸送手段がないことには住むにも住めませんから、市営地下鉄などで多大の赤字を垂れ流す前に山間地域のネットワークを考えるなど、京都市はやるべきことがたくさんあると思います。
前から行きたいと思っていた雲ヶ畑、きょう初めて行って来ました。京都バスで北大路駅前から3人の乗客で終点の岩屋橋まで乗ったのは私ひとりでした。志明院1.4キロ、桟敷ヶ岳登り口3・8キロの看板を見るだけ、それ以上は右にも左にも動けませんです^^折り返し時間は15分でその間運転手さんに、「真弓はどの方向に行くのですか?」と訊ねますと、「さあ~、よくわからないけど、3つほど下の白梅橋から右の方向に行くのかな?」との答えでした。これが持越峠のことかしら?と思いつつgunkanatagoさまの文章で真弓に強く惹かれながら、またバスで帰ってきました。桟敷ヶ岳の名前は主人の日記にもよく出てきますので親しみを持っています。人間幾つになっても未踏の所に行くことはこんなにわくわくするもんですよね♪嬉しいひと時でした。
また機会がありましたら、ささ舟様の第2回目の雲ヶ畑行きにお供をして、あの近辺を御案内したいと思います。雲ヶ畑中津川町から魚谷林道方面には何と喫茶店があります。