師匠曰く「今日はバテレン尽くしやでー」と。いつもは時間などは気にせず、行き当たりバッタリの徘徊なのですが、本日は午後4時に洛西パブテスト教会に行かねばなりませんので、それを考えての徘徊となりました。アーメン!
まず最初は、市内各地に残る地名表示から、この押小路間之町というのは現在は中京区ですが、1929年以前の中京区創設以前は上京区でした。この表示板もそれだけの星霜を経ているのですが、何かきれいですね。この仁丹の住所表示、琺瑯製だそうですが、木製のものもわずかながらに残っているそうです。師匠の言に拠りますと、木製の表示板は手持ちの資料では11あると記されているそうですが、師匠が探したところ、そのうちの6つは既に失われ、現在は5つ確認できるとのことです。
京都市役所にも近い風呂屋さんです。初音の名は懐かしく、初音中学校は既に廃校となりました。立派な蒲鉾屋さんは現役、白山神社はこの辺りの氏神さんです。
茨木蒲鉾店
白山神社
柊屋別館
今は、京都市役所のすぐ西にあたる地域をブラブラしているのですが、「バテレン徘徊」ということで、御幸町教会を目指していたからでした。
ヴォーリズ建築を今に残すこの教会は、勿論現役の教会で、のぞいてみたところ牧師さんによる説教が行われていました。最終的に目指す教会も、この時間には説教が行われているはずです。何か、昔NHKでやってた「大草原の小さな家」のような雰囲気ですね。けれども侮るなかれ、このような勤勉・禁欲的な精神が資本主義を生んだのだとウェーバー翁が述べておりますぞ。アーメン!
二条富小路内裏跡付近の郵便ポスト、道に対して斜めになっています。いかなる理由があるのでしょうか。この謎について知っておられる方、どうかご教示願います。
次に目指したのが、ハリストス正教会。本朝に於いては今一馴染みがないのですが、ギリシャ正教の教会です。毛むくじゃらの坊さんがミサをしているかなと期待しましたが、完全に閉まっています。これだけの建物でありますから、京都市の指定文化財にもなっています。
少し早い目の中食及び飲酒は「とおる蕎麦」、隠れ家のようなところですが、師匠は褒めます。ウン、そば湯もうまかった。酒はちょっと高い。この店、夕刻からは居酒屋となり、昼間の蕎麦屋と経営者も異なるとのことです。
蕎麦屋を出て西へ、「師匠、バテレンは洛西教会まで、もうしまいですか?」、「何の何の。」と楽しみであります。烏丸通を渡る前、二条車屋町通下るには雨森無二膏という膏薬の店、烏丸通を渡って押小路衣棚にまたまた仁丹。
釜座通押小路まで来ると、東三条殿跡、藤原道長の姉さんで一条天皇の母である藤原詮子の住んだところです。道長の「この世をば…」の栄華も、この姉さんあってのことです。
さらに御金神社(みかね神社)、釜座の名が示すように、この辺りには金属加工の職人が集住していたのでしょう。鍛冶の神様である「金山毘古神」が祀られています。ただ、少々異様なのは金の鳥居、「御金=おかね」の連想でなにやら銭ゲバの神様というふうになってしまっているのは、ちょっと気の毒です。晴明神社同様、参拝者の列が途切れませんから、宮司さんにしてみれば「やったぜぃ!」というところでしょうが、何かギトギトしていて、いずれ金山毘古神がお怒りになるのではとも思います。日本の神社と言うより支那の道観やな。
小川通押小路付近には、閑院跡と豊臣秀吉の妙顕寺城跡の碑。
堀川通に出ました。近年堀川には流れが復活しています。その川の中には二条城の石組みが残っていて、大名家の刻印も確認できるとのことです。下の石の写真の少し白くなっているところ、既に確認は困難ですが、「此れ従り北紀州」と彫られています。ここから北は紀州藩(二条城築城の年代から御三家ではなく浅野家と考えられる)が工事を担当するという意味です。
振り返れば、京都国際ホテル、越前藩の京屋敷跡です。ホテルの裏には京都守護職の門が移築されています。橋本左内寓居跡だけが仰々しく記されていますが、越前藩士で京詰めの者はみんな住んどった訳です。
京都所司代役宅跡を経て、堀川丸太町を北西に進み、佐々木酒造へ。「古都(ラベルの字は川端康成)」などの日本酒を醸造している酒蔵です。写真はおまへんが店の前に置かれた4合ビンの自動販売機は結構珍しいものではないでしょうか。「西陣」や「聚楽第」など如何にも京都の地酒という銘柄も並びます。こんな立派な実家なのに役者などをやっとるのは極道モンやな。
佐々木酒造
智恵光院出水を北に上がり、内酒殿跡。宮中で飲む酒を造っていたところです。良い水が出るのでしょう。デイサービスの施設にしておくには惜しい。せめて井戸を使うべし。
出水通と下立売通の間に位置する道は聚楽第の南の堀跡、そのすぐ南に松林寺があります。この寺に「やすてら松林寺」と刻まれた碑があります。通常「やす」は「子安」の「安」と理解されていますが、この寺の墓地内にキリシタンの墓があったこともあって、「やそてら」=「耶蘇寺」ではないかという解釈も成り立ちます。後述しますが、ここの坊さん、尊敬すべき人物です。
この辺りからは、平安宮のまっただ中に入ることになりますので、あれやこれやと建物跡を示す碑が多く建っています。殊に「源氏物語千年紀」に関する事業として整備されたものが多い。
内裏昭陽舍跡
紫宸殿跡は現在酒屋さん。
丸太町七本松の図書館には造酒司跡、黒い丸で柱穴が示されています。この図書館は、ちょっとした博物館にもなっています。この北側辺りに仁丹木製住所表示の一つがありますが、ホーロー製とは異なり、字は風化して読めません。
七本松通を北上します。観光京都という点からは完全に無視された地域ですが、何やかやと面白いものがあります。大雄寺には江戸時代前期の学者で『異称日本伝』の著者、松下見林の墓と映画監督山中貞雄の記念碑(碑文は小津安二郎)。
以前、師匠が見林の墓を探しに墓地をウロウロしたときには、ちょうど見林の墓の横の墓で納骨の供養か何かをやっていたらしく、墓石の前には行けないので遠くからためつすがめつ眺めたとのこと。御住職は事情はよく分かっておられたと思いますが、供養中の御家族は「何者だ」と思われたでしょうね。
大雄寺の隣の極楽寺の門は潜り戸が左右対称についている珍しい門、その隣の観音寺は「負けへんでー」と、何と伏見城の牢獄の門を持ってきている。
伏見城牢獄の門を移築
出水通りに入って五却院の門には涅槃仏が見えるそうですが、今一よく判りません。ここいらのことは出水の七不思議というそうです。これはこれで徘徊を企画せねばならない。清水寺や金閣をまわっているよりは遥かに面白いと思います。
五却院
宴の松原跡(往時女官バラバラ殺人事件がおこったところ)を経て五番町に入ってきました。日に日に遊郭の趣が消えて行きつつあります。夕子はんはいるかなと目を凝らしましたが、もと夕子はんがウロウロしているのみです。検番のあった千本日活は健在ですが、誰か見に行く者はいるのでしょうか。
四番町を経て、立本寺に。ここの墓地には石田三成の家来であった島左近の墓がありますが、その没年が寛永年間になっているために、関ヶ原の戦いの後も逃げ延びてここで余生を送ったという話が生まれています。
立本寺刹堂
怪しげな島左近の墓云々よりも、この墓地には灰屋紹益の墓があります。かの吉野太夫を身請けした男子の鏡、京の町衆で法華の信者、立本寺は日蓮宗の寺ということで大旦那だったのでしょう。歴代の住職の墓の並ぶ一隅に一族の墓がありました。
そのまま、中立売通から北野天満宮門前へ、さらに上七軒。大きな矢を飾る家は宮大工の証しです。西方尼寺の壁に謎の碑が埋め込まれています。碑を動かさずに壁を拡張したためにこうなったのでしょうか。
上七軒の提灯
さて、この徘徊も残りはもうちょいのですが、今回も全部で1万字の壁を越えそうなので、前編はこれにて終了し、後編に引き継がせていただきます。
まず最初は、市内各地に残る地名表示から、この押小路間之町というのは現在は中京区ですが、1929年以前の中京区創設以前は上京区でした。この表示板もそれだけの星霜を経ているのですが、何かきれいですね。この仁丹の住所表示、琺瑯製だそうですが、木製のものもわずかながらに残っているそうです。師匠の言に拠りますと、木製の表示板は手持ちの資料では11あると記されているそうですが、師匠が探したところ、そのうちの6つは既に失われ、現在は5つ確認できるとのことです。
京都市役所にも近い風呂屋さんです。初音の名は懐かしく、初音中学校は既に廃校となりました。立派な蒲鉾屋さんは現役、白山神社はこの辺りの氏神さんです。
茨木蒲鉾店
白山神社
柊屋別館
今は、京都市役所のすぐ西にあたる地域をブラブラしているのですが、「バテレン徘徊」ということで、御幸町教会を目指していたからでした。
ヴォーリズ建築を今に残すこの教会は、勿論現役の教会で、のぞいてみたところ牧師さんによる説教が行われていました。最終的に目指す教会も、この時間には説教が行われているはずです。何か、昔NHKでやってた「大草原の小さな家」のような雰囲気ですね。けれども侮るなかれ、このような勤勉・禁欲的な精神が資本主義を生んだのだとウェーバー翁が述べておりますぞ。アーメン!
二条富小路内裏跡付近の郵便ポスト、道に対して斜めになっています。いかなる理由があるのでしょうか。この謎について知っておられる方、どうかご教示願います。
次に目指したのが、ハリストス正教会。本朝に於いては今一馴染みがないのですが、ギリシャ正教の教会です。毛むくじゃらの坊さんがミサをしているかなと期待しましたが、完全に閉まっています。これだけの建物でありますから、京都市の指定文化財にもなっています。
少し早い目の中食及び飲酒は「とおる蕎麦」、隠れ家のようなところですが、師匠は褒めます。ウン、そば湯もうまかった。酒はちょっと高い。この店、夕刻からは居酒屋となり、昼間の蕎麦屋と経営者も異なるとのことです。
蕎麦屋を出て西へ、「師匠、バテレンは洛西教会まで、もうしまいですか?」、「何の何の。」と楽しみであります。烏丸通を渡る前、二条車屋町通下るには雨森無二膏という膏薬の店、烏丸通を渡って押小路衣棚にまたまた仁丹。
釜座通押小路まで来ると、東三条殿跡、藤原道長の姉さんで一条天皇の母である藤原詮子の住んだところです。道長の「この世をば…」の栄華も、この姉さんあってのことです。
さらに御金神社(みかね神社)、釜座の名が示すように、この辺りには金属加工の職人が集住していたのでしょう。鍛冶の神様である「金山毘古神」が祀られています。ただ、少々異様なのは金の鳥居、「御金=おかね」の連想でなにやら銭ゲバの神様というふうになってしまっているのは、ちょっと気の毒です。晴明神社同様、参拝者の列が途切れませんから、宮司さんにしてみれば「やったぜぃ!」というところでしょうが、何かギトギトしていて、いずれ金山毘古神がお怒りになるのではとも思います。日本の神社と言うより支那の道観やな。
小川通押小路付近には、閑院跡と豊臣秀吉の妙顕寺城跡の碑。
堀川通に出ました。近年堀川には流れが復活しています。その川の中には二条城の石組みが残っていて、大名家の刻印も確認できるとのことです。下の石の写真の少し白くなっているところ、既に確認は困難ですが、「此れ従り北紀州」と彫られています。ここから北は紀州藩(二条城築城の年代から御三家ではなく浅野家と考えられる)が工事を担当するという意味です。
振り返れば、京都国際ホテル、越前藩の京屋敷跡です。ホテルの裏には京都守護職の門が移築されています。橋本左内寓居跡だけが仰々しく記されていますが、越前藩士で京詰めの者はみんな住んどった訳です。
京都所司代役宅跡を経て、堀川丸太町を北西に進み、佐々木酒造へ。「古都(ラベルの字は川端康成)」などの日本酒を醸造している酒蔵です。写真はおまへんが店の前に置かれた4合ビンの自動販売機は結構珍しいものではないでしょうか。「西陣」や「聚楽第」など如何にも京都の地酒という銘柄も並びます。こんな立派な実家なのに役者などをやっとるのは極道モンやな。
佐々木酒造
智恵光院出水を北に上がり、内酒殿跡。宮中で飲む酒を造っていたところです。良い水が出るのでしょう。デイサービスの施設にしておくには惜しい。せめて井戸を使うべし。
出水通と下立売通の間に位置する道は聚楽第の南の堀跡、そのすぐ南に松林寺があります。この寺に「やすてら松林寺」と刻まれた碑があります。通常「やす」は「子安」の「安」と理解されていますが、この寺の墓地内にキリシタンの墓があったこともあって、「やそてら」=「耶蘇寺」ではないかという解釈も成り立ちます。後述しますが、ここの坊さん、尊敬すべき人物です。
この辺りからは、平安宮のまっただ中に入ることになりますので、あれやこれやと建物跡を示す碑が多く建っています。殊に「源氏物語千年紀」に関する事業として整備されたものが多い。
内裏昭陽舍跡
紫宸殿跡は現在酒屋さん。
丸太町七本松の図書館には造酒司跡、黒い丸で柱穴が示されています。この図書館は、ちょっとした博物館にもなっています。この北側辺りに仁丹木製住所表示の一つがありますが、ホーロー製とは異なり、字は風化して読めません。
七本松通を北上します。観光京都という点からは完全に無視された地域ですが、何やかやと面白いものがあります。大雄寺には江戸時代前期の学者で『異称日本伝』の著者、松下見林の墓と映画監督山中貞雄の記念碑(碑文は小津安二郎)。
以前、師匠が見林の墓を探しに墓地をウロウロしたときには、ちょうど見林の墓の横の墓で納骨の供養か何かをやっていたらしく、墓石の前には行けないので遠くからためつすがめつ眺めたとのこと。御住職は事情はよく分かっておられたと思いますが、供養中の御家族は「何者だ」と思われたでしょうね。
大雄寺の隣の極楽寺の門は潜り戸が左右対称についている珍しい門、その隣の観音寺は「負けへんでー」と、何と伏見城の牢獄の門を持ってきている。
伏見城牢獄の門を移築
出水通りに入って五却院の門には涅槃仏が見えるそうですが、今一よく判りません。ここいらのことは出水の七不思議というそうです。これはこれで徘徊を企画せねばならない。清水寺や金閣をまわっているよりは遥かに面白いと思います。
五却院
宴の松原跡(往時女官バラバラ殺人事件がおこったところ)を経て五番町に入ってきました。日に日に遊郭の趣が消えて行きつつあります。夕子はんはいるかなと目を凝らしましたが、もと夕子はんがウロウロしているのみです。検番のあった千本日活は健在ですが、誰か見に行く者はいるのでしょうか。
四番町を経て、立本寺に。ここの墓地には石田三成の家来であった島左近の墓がありますが、その没年が寛永年間になっているために、関ヶ原の戦いの後も逃げ延びてここで余生を送ったという話が生まれています。
立本寺刹堂
怪しげな島左近の墓云々よりも、この墓地には灰屋紹益の墓があります。かの吉野太夫を身請けした男子の鏡、京の町衆で法華の信者、立本寺は日蓮宗の寺ということで大旦那だったのでしょう。歴代の住職の墓の並ぶ一隅に一族の墓がありました。
そのまま、中立売通から北野天満宮門前へ、さらに上七軒。大きな矢を飾る家は宮大工の証しです。西方尼寺の壁に謎の碑が埋め込まれています。碑を動かさずに壁を拡張したためにこうなったのでしょうか。
上七軒の提灯
さて、この徘徊も残りはもうちょいのですが、今回も全部で1万字の壁を越えそうなので、前編はこれにて終了し、後編に引き継がせていただきます。
昨年に母の7回忌を迎えて五番町近くの菩提寺で法事を営みましたが、葬儀は園部教会でした。葬儀後2~3度は教会の毎年の法要(?)にも出向きましたが、今は寺のみにしております。無信心な私が教会で感心しましたのは、母の葬儀の時に、2人が洗礼を受けた記録が台帳(?)に残っているのを牧師から知らされたことです。昭和5年頃のことですから、80年程昔になります。やはり、伝統のある宗教ですから、何百年の記録が残されているのでしょう。
2人が特別に信仰心が厚かった記憶はないのですが、母がたまに賛美歌を口ずさんでいましたし、クリスマスイヴには我が家にもサンタクロースが来てました。疎開した田舎(宇津村です)で友人にその話しをすると、実に不思議な顔をされました。低学年の頃の私は、まだサンを信じていたのです。
「聖書物語」の様な小説があり、退屈を持て余していたな私は何度も呼んで、マリアやユダやキリストはもちろん、モーゼやダビデやゴリアテなどの名前を覚えたものです。
話は外れて申し訳ありません。それにしても、松林寺の「やすてら」が子安ではなくて耶蘇かも、の推測は面白いです。そんなに立派な坊さんですか?
仁丹の町名標識は懐かしい物です。最近になり、復活の作業が始まったとのことですので、また、昔の様に方々で目に付くことになるでしょう。町並みや学校や色街は廃れる一方ですが。
昔の宇津のクリスマス、目に見えるようです。小生なども少年時に住んでいたところは未だ未だ近代と呼べぬところでしたから、村で初めてプリンを食った少年になりました。
宇津には診療所の跡でしょうか、教会というか礼拝所が一つありますね。開いているところは見たことがないのですが、クリスマスのシーズンになるとささやかな電飾が施されますから、忘れられているということでもなさそうです。白いマリア像が立っているだけで、随分と異なる雰囲気をかもし出しています。
仁丹の町名標識、見れば何故か嬉しいです。私の通う病院に同名の薬剤師さんがいられます。関係があるのかしら?
いつも余談ばかりですみません。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~christian/shiryokan.html に像が載っています。また、ホンモノでは西南学院大学博物館
http://www.seinan-gu.ac.jp/museum/tenjihin/index.html
で像を見ることが出来ます。ここは魔鏡の帰属をめぐって、これからもめそうです。
今、師匠は逼塞状態です。小生は秋鹿の吟醸酒が効いて、今年は花粉症の症状は目だけです。何か「治っちゃったい!」と小躍りしています。だいぶ先になりますが、「西賀茂」、是非お越し下さい。
上七軒に入って話が途絶えましたが、この界隈は山国隊の藤野斎さんと縁がありまして(牧野やなさんとの出会いの場)、以前衣笠の住吉霊園に斎さんの墓を探しに行ったのですが見つけられませんでした。また北野天満宮には山国隊が奉納した灯籠があるのですがこれも見つけられませんでした。じっくりと時間を掛けて見に行きたいと思っています。
あれれ、本文の話題とはかけ離れてしまいました。ごめんなさい。
二条城の石垣は、京都国際ホテルの辺りで川の中に入ると見ることが出来ます。一つの疑問として、今の堀川通が二条城の中でどうなっていたのかなと思います。当日は、各大名家の刻印は確認できませんでしたので、またゆっくりと時間があるときに見てこようとも考えています。
京北の番組、グッドタイミングで猫がおこしに来たので見ることが出来ました。正味10分の番組でしたが、京北を知らない人にはそれなりにアピールしたのではと思います。これはもう特番で2時間ぐらいでじっくりと京北の伝承や産業を取り上げてもらいたいですね。