さて、北野天神、今回はお参りはご容赦いただき、一条通へ。トップの写真は椿寺(地蔵院)の散椿です。残念ながら未だ蕾み堅く花は一輪も咲いていません。茶道界では、利休が椿を愛おしんだということで、この時期は茶室に椿を飾る慣習があるそうですが、花卉商での椿はべらぼうな価格が付けられています。これだけあれば、100万円はいくなあと俗な感想。
この椿寺には、天野屋利兵衛の墓や夜半亭巴人の墓があります。というよりも墓の中に寺があるという感じ。夜半亭といえば、やはり蕪村を思い浮かべますが、巴人が初代で蕪村は二代目です。さらに蒲鉾型で特徴がはっきりとしているキリシタン墓石、茨木の山奥でも見られるものです。後で伺った話に依りますと、墓石の十字架は深くえぐられ、長いこと手水鉢として使用されてきたということです。京都国立博物館にもそのように利用されてきたのが展示されていますね。大将軍八神社も本日は門前を通るのみ。
少し東に戻り、天神通を南下します。京都には吉利支丹が集住していたと考えられる地域に「だいうす(ゼウス)町」という地名が何ヶ所か残っています。長崎で処刑された所謂26聖人も京都の人です。この天神通も「だいうす通」と言って良い通りだそうです。
奥渓家は大友宗麟の末裔、宗麟は有名なキリシタン大名ですね。宗麟の子、義統の次男が始祖ですが、多くの信者が大友氏を徳として辺りに住みついたかも知れません。以後、宮廷の御典医として代々仁和寺門跡に使えてきたということで、今も「蘇命散」という薬の看板が掛かります。
奥渓(おくたに)家住宅・長屋門
北野天神は、今日全国から学問成就・合格祈念を願う人たちが参拝に来るお社ですが、同時にこの地域の氏神さんとしても崇敬されてきました。北野社を氏神とする地域は7つに分けられ、「保」という組織を創って祭礼やその他の神事にあたりました。保ごとに北野さんを祀るお社もあったようですが、現存するのは今や「一の保」だけのようです。「保」は本来は平安京の条坊制の一単位です。この言葉が生きているとは流石に京都!
一の保
下立売通を西に向かい、だるま寺へ。お目当ては力石だけです。師匠かつて拝観料を徴収するオバハンに力石のことを聞く、オバハン曰く「そんなもん知りまへん」と。確かに寺の誰もが知らなかったのでしょうね。力石は墓とだるま堂(悪趣味)の間、目立たぬ処に見られぬように置かれています。わけの解らぬ「だるま」のコレクションよりもよっぽと値打ちがあるのになあと申す処。本日も、小屋の中でオバハンが無愛想にこちらを睨んでいました。オバキン、しっかり勉強せえよ。
「さし石」と記されている力石は多いとのこと。
西大路通を渡り、北野中学に。師匠が予め教頭先生に了解を取っています。北野中学のグラウンドの北端に「お土居」が残っています。秀吉が構築したお土居は、この辺りだけが西に突出した形をしていますが、北端のお土居は、その突出部の北辺に当たります。
お土居の北側にプールがあります。北野中学の生徒は、このお土居を越えてプールに行くのです。変に整備もされていませんから、大変良好な形で残っていると思います。
お土居の上
北野中学の西隣、北野天神御旅は四の保跡。威徳水という井戸がありますが、今は枯れています。
四の保威徳水
4時ジャストに洛西パブテスト教会に到着しました。牧師様は聖堂の前で待っていて下さいました。本日は厚かましくも「魔鏡」を拝見したいとお願いしていたのですが、約2時間30分、京都のキリシタンのことや魔鏡にまつわる話をたっぷりと聴かせていただきました。大学の90分授業、くだらぬ講義の時には、この授業は永遠に続くのではないかとうんざりしたものですが、この150分は本当にあっという間に過ぎてしまいました。
牧師様には、京都のキリシタン史跡に関する著作があるのですが、今まで、その方面でのまとまった記述は見たことがなかったので、京都とキリシタンについて初めて知ることも多くありました。
教会の庭にある織部灯籠(キリシタン灯籠)と松林寺にあったキリシタン墓石です。松林寺の御住職が自分の寺の無縁墓の中に積み上げられているのを見つけ、キリシタンとして亡くなった人のものだから寺にあるよりは教会に置いた方が故人も喜ぶのではと言って持ってこられたそうです。「寺の坊主が厄介払いをしただけやがな」と思われるかも知れませんが、そのまま積み上げておいても何の問題もないのに、やはりキリシタンとして亡くなった人のことを哀れに思われたのでしょう。松林寺の御住職は、この墓石を胸に抱きかかえて持ってきて下さったそうです。小生は非常に誠実な方だと思います。どこぞの脱税坊主とは人間のデキが違う。
さて、魔鏡というのは鏡面に光をあてると、その反射光の中に十字架のキリストと二人の天使の像が浮かび上がるものです。鏡の中が空洞になっていて、内側の部分をその形に削り取っていくことでそういう現象が起こるそうです。魔鏡といわれる鏡は多くあるのですが、キリシタン鏡は世界で三面、エリザベスサンダーホーム所蔵のもの、洛西教会が所蔵し西南学院大に貸し出しているもの、そして今、目の前にあるものです。このうち、像が映るのは西南学院大に貸し出しているものだけで、今目の前にあるものは鏡面の水銀が削り取られています。その刃物の跡が結構凄みがあります。かつて持ち主は「ヤバー」と言いながら冷や汗をかきつつ水銀をはぎ取ったのでしょう。
三面とも同笵鏡で、作者名を消すために制作時より一回り小さくなっています。バチカンに献上されたものや、フランシスコの家(キリスト教文化資料館)にあるものは京鋳物師山本某が製作したレプリカです。これは科学的調査をすればすぐに分かることです。等と唐突に記すのは、ちょっと恥ずかしい話もうかがったからですが、どういうことかは御推測願います。いかなる宗教であれ、教団がでかくなるとダメになるもののようです。
この魔鏡にまつわる物語は、近々出版される予定ですので、うかがったお話はここには載せませんが、折々に新聞などにも書いておられます。
教会から出たときにはとっぷりと日が暮れておりました。今度は酒を持ってお訪ねしようと思いますが、飲まはるのかな。
「おもしろかったなあ!あとは酒や。」と師匠。西院まで歩いて居酒屋に入りましたが、充実の徘徊に献杯であります。
おまけ、以前に徘徊した宮川町のマークは
本日の上七軒は
でした。では次のマークはどこでせう。
答 先斗町。
この椿寺には、天野屋利兵衛の墓や夜半亭巴人の墓があります。というよりも墓の中に寺があるという感じ。夜半亭といえば、やはり蕪村を思い浮かべますが、巴人が初代で蕪村は二代目です。さらに蒲鉾型で特徴がはっきりとしているキリシタン墓石、茨木の山奥でも見られるものです。後で伺った話に依りますと、墓石の十字架は深くえぐられ、長いこと手水鉢として使用されてきたということです。京都国立博物館にもそのように利用されてきたのが展示されていますね。大将軍八神社も本日は門前を通るのみ。
少し東に戻り、天神通を南下します。京都には吉利支丹が集住していたと考えられる地域に「だいうす(ゼウス)町」という地名が何ヶ所か残っています。長崎で処刑された所謂26聖人も京都の人です。この天神通も「だいうす通」と言って良い通りだそうです。
奥渓家は大友宗麟の末裔、宗麟は有名なキリシタン大名ですね。宗麟の子、義統の次男が始祖ですが、多くの信者が大友氏を徳として辺りに住みついたかも知れません。以後、宮廷の御典医として代々仁和寺門跡に使えてきたということで、今も「蘇命散」という薬の看板が掛かります。
奥渓(おくたに)家住宅・長屋門
北野天神は、今日全国から学問成就・合格祈念を願う人たちが参拝に来るお社ですが、同時にこの地域の氏神さんとしても崇敬されてきました。北野社を氏神とする地域は7つに分けられ、「保」という組織を創って祭礼やその他の神事にあたりました。保ごとに北野さんを祀るお社もあったようですが、現存するのは今や「一の保」だけのようです。「保」は本来は平安京の条坊制の一単位です。この言葉が生きているとは流石に京都!
一の保
下立売通を西に向かい、だるま寺へ。お目当ては力石だけです。師匠かつて拝観料を徴収するオバハンに力石のことを聞く、オバハン曰く「そんなもん知りまへん」と。確かに寺の誰もが知らなかったのでしょうね。力石は墓とだるま堂(悪趣味)の間、目立たぬ処に見られぬように置かれています。わけの解らぬ「だるま」のコレクションよりもよっぽと値打ちがあるのになあと申す処。本日も、小屋の中でオバハンが無愛想にこちらを睨んでいました。オバキン、しっかり勉強せえよ。
「さし石」と記されている力石は多いとのこと。
西大路通を渡り、北野中学に。師匠が予め教頭先生に了解を取っています。北野中学のグラウンドの北端に「お土居」が残っています。秀吉が構築したお土居は、この辺りだけが西に突出した形をしていますが、北端のお土居は、その突出部の北辺に当たります。
お土居の北側にプールがあります。北野中学の生徒は、このお土居を越えてプールに行くのです。変に整備もされていませんから、大変良好な形で残っていると思います。
お土居の上
北野中学の西隣、北野天神御旅は四の保跡。威徳水という井戸がありますが、今は枯れています。
四の保威徳水
4時ジャストに洛西パブテスト教会に到着しました。牧師様は聖堂の前で待っていて下さいました。本日は厚かましくも「魔鏡」を拝見したいとお願いしていたのですが、約2時間30分、京都のキリシタンのことや魔鏡にまつわる話をたっぷりと聴かせていただきました。大学の90分授業、くだらぬ講義の時には、この授業は永遠に続くのではないかとうんざりしたものですが、この150分は本当にあっという間に過ぎてしまいました。
牧師様には、京都のキリシタン史跡に関する著作があるのですが、今まで、その方面でのまとまった記述は見たことがなかったので、京都とキリシタンについて初めて知ることも多くありました。
教会の庭にある織部灯籠(キリシタン灯籠)と松林寺にあったキリシタン墓石です。松林寺の御住職が自分の寺の無縁墓の中に積み上げられているのを見つけ、キリシタンとして亡くなった人のものだから寺にあるよりは教会に置いた方が故人も喜ぶのではと言って持ってこられたそうです。「寺の坊主が厄介払いをしただけやがな」と思われるかも知れませんが、そのまま積み上げておいても何の問題もないのに、やはりキリシタンとして亡くなった人のことを哀れに思われたのでしょう。松林寺の御住職は、この墓石を胸に抱きかかえて持ってきて下さったそうです。小生は非常に誠実な方だと思います。どこぞの脱税坊主とは人間のデキが違う。
さて、魔鏡というのは鏡面に光をあてると、その反射光の中に十字架のキリストと二人の天使の像が浮かび上がるものです。鏡の中が空洞になっていて、内側の部分をその形に削り取っていくことでそういう現象が起こるそうです。魔鏡といわれる鏡は多くあるのですが、キリシタン鏡は世界で三面、エリザベスサンダーホーム所蔵のもの、洛西教会が所蔵し西南学院大に貸し出しているもの、そして今、目の前にあるものです。このうち、像が映るのは西南学院大に貸し出しているものだけで、今目の前にあるものは鏡面の水銀が削り取られています。その刃物の跡が結構凄みがあります。かつて持ち主は「ヤバー」と言いながら冷や汗をかきつつ水銀をはぎ取ったのでしょう。
三面とも同笵鏡で、作者名を消すために制作時より一回り小さくなっています。バチカンに献上されたものや、フランシスコの家(キリスト教文化資料館)にあるものは京鋳物師山本某が製作したレプリカです。これは科学的調査をすればすぐに分かることです。等と唐突に記すのは、ちょっと恥ずかしい話もうかがったからですが、どういうことかは御推測願います。いかなる宗教であれ、教団がでかくなるとダメになるもののようです。
この魔鏡にまつわる物語は、近々出版される予定ですので、うかがったお話はここには載せませんが、折々に新聞などにも書いておられます。
教会から出たときにはとっぷりと日が暮れておりました。今度は酒を持ってお訪ねしようと思いますが、飲まはるのかな。
「おもしろかったなあ!あとは酒や。」と師匠。西院まで歩いて居酒屋に入りましたが、充実の徘徊に献杯であります。
おまけ、以前に徘徊した宮川町のマークは
本日の上七軒は
でした。では次のマークはどこでせう。
答 先斗町。
話はいきなり横道に外れて申し訳ありません。私は洋の東西を問わず、神仏への信仰心や畏敬心は零ですが、それでも教会には感心したことが一つあります。園部教会で母の葬儀を挙行したのですが、極めて慎ましやかで菩提寺のそれとは雲泥の差があったことです。その後も降誕祭などの連絡はありますが、回忌と言いますか法事などの催促はまるでありません。非常に良心的な感がします。
宇津にも牧師不在の教会がありますが、私の子供の頃は、クリスマスイヴに呼ばれてプレゼントを貰ったことがあります。サンタは、市内か近郊の本部からその日だけ来たのでしょう。田舎の子供のささやかな楽しみでした。総ての牧師が良心的とは限らないとは思います。現に、スチュワーデス殺人容疑で、確証が見つからなくて本国(北欧の何処かでした)へ逃げて帰った牧師も居りましたが、何だか坊さんより宗教家に近い感じは否めません。魔境がレプリカになっているのは、経費捻出のため已む無く売却したのでしょうか。
それもそうとして、だいうす町(大臼町?)はゼウスの訛でしたか。昔、油小路元誓願寺辺りにもあった様な気かするのでずか。もしかして、京都には長崎より多くのキリシタンが居たのかも知れません。
長時間に亘るカタイ話の後で、仄かな提灯が場面を和らげてくれた様です。中から灯影が浮かび上がる日本の提灯こそ魔灯と呼ぶのに相応しく、夜の魔界で魔酒に寛ぐ時間こそ極楽と呼ぶべきではないでしょうか。
スチュワーデス殺人事件の犯人と目されたのはカトリックの神父ですね。神父は基本的には妻帯できませんので、性的に歪むことも多いようで、アメリカなどでは少年に対する猥褻行為が大きな問題になっています。
プロテスタントの牧師(妻帯可)の方は、良き「家庭人」であろうとする人が多く、かつ教義的にも勤勉・禁欲を大事にしますから問題は少ないように思います。ただ、極端なファンダメンタリズムに陥る場合もあり、アメリカなどにおけるカルトはプロテスタントの亜流であることも多いようです。
今回の京都の吉利支丹については、今まで殆ど知りませんでした。26聖人の殆どが京都の人であったことも含めて、まだまだ勉強することは多いなあと思いました。探せば、ゾロアスター教やジャイナ教、マニ教、マズダック教などもあったりして…等と考えています。
前回の徘徊とあわせれば、ご自身が云っておられます通り、もの凄く充実の徘徊であったことがお察しできます。私は椿寺の五色八重の散椿を見に行きたく思いました。単純です!
なるほど、魔鏡の構造はこのようになっているのですか。広い世界に三面しかないもの。すごいですねぇ!レプリカのことで恥ずかしい話は私には推測できませんが?
夕闇に花街の提灯はいっそう、路地裏の赤提灯もいいものですね^^殿方がふらふらと入られる気持ちがわりますわ♪
恥ずかしい話というのは、先ず西南学院大については寄託されたものを寄贈されたものとしている点ですが、レプリカを実物と言い張っているところもあり、なかなかに多難です。ひどい話としては、カトリックの側が魔鏡をプロテスタントの牧師が持っているのはけしからぬので、取り返せと騒いでいるというのもあります。
來々週のアップになると思いますが、中之島のバラ園、4月に再開園されます。まだ株を植えたばかりですが、注意していて咲き始めたらご報告したいと思っています。