兼ねて予定の京街道を通しで歩こうという件、既に完歩された師匠の案内で始まりました。街道歩きのプロ(というか馴れている人)には笑われるかも知れませんが、あちらこちらと寄り道をしながら行くので大津から大坂高麗橋までを6回程度に分けて歩きます。本日は梅雨の晴れ間の徘徊、暑い日になりましたが多くの方にご参加いただきました。ありがとうございます。
集合場所は大津駅、京街道と言うことだけならば京津線の追分駅でもよいのですが、追分からだと見るものが少ない上に、昼飯を食う場所に難儀するという師匠の深謀遠慮に拠ります。まず、というよりも昼食場所に向かう途中にといった方がいいかも知れませんが、華階寺の大銀杏。本来は境内に有ったものが道路の拡幅により寺の境内が狭められた結果境内の外に出てしまった形になっています、
華階寺の門前には俵藤太矢の根地蔵の石標。藤原秀郷による三上山の大ムカデ退治にからむものでしょうね。残念ながら寺の門は固く閉ざされています。藤原秀郷の子孫は各地に広がっていますから、今や全ての日本人(近年にいたって帰化したという人は除いて)のDNAにその遺伝子が組み込まれているはずです。
本願寺の大津別院を見て、東海道に入ります。この辺りは宿場の雰囲気が良く残っていますが、如何せん人通りは少なく「しもたや」になっている店も多い感じです。滋賀県も各地に大型店ができていますから、こういう通りの古い商店街は本当にしんどいと思います。例えば、外国資本等の大型店を誘致する→地域の商店街が壊滅する→大型店が撤退する→跡には何も残らない、こんなことが地域の活性化と言えるのでしょうか?勿論、日本の大資本もこれに似たことを各地でやっています。今現在ある商店街が栄える方策を考えるならば、かつての大店法の復活も是とせねばなりません。日本はアメリカの植民地にあらず。だから何かを誘致することに必死になっている政治家もあきませんね。今、その地にあるものを活かさねばなりません。
ロシア皇太子(ニコライ、後のロシア皇帝ニコライ2世、ロシア革命時に家族共々銃殺される)が警備の警官に斬りつけられた大津事件の現場です。これをくだくだと語り出したらものすごい字数が必要ですので、話を一つに留めます。頭に怪我をした皇太子は近くの民家で応急処置を受けます。その時に流れ出る血を吸いこませた布を誰かが保管したのでしょうね。たしか今は大津市のものになっていると思いますが、シベリアで皇帝一家らしき遺体が発掘されたときにDNA鑑定を行うためにこの布が使われました。当時の大津市、1センチ切り取るのはやむを得ぬが2センチは困るとかなんとか、そんなことを言っていました。そんなモン、くれてやれよと思ったことを覚えています。
菰樽にはどうしても目を引き付けられますね。浅茅生というのは地酒でしょうね。滋賀の地酒といえば今津や新旭や木之本のもの以外は縁遠いのですが、甲賀の方にもいい蔵元があるようですね。
昼食場所は、町家を改造したティシャツ屋の奥、師匠が予約をして下さいました。残念ながら食堂の写真はありませんが、小生の好き嫌いであれこれと気を遣わせて申し訳ありませんでした。今度から好き嫌いの理由を聞かれたら宗教上の理由と答えます。何がいいかな?ジャイナ教、これなんかがいいけど、そうなると牛肉も食えんし、悪所にも出入り出来んしなあ。
この奥に食堂があろうとは!
昼食場所のすぐ近くに曳山資料館。大津祭の曳山が展示されています。京都の祇園祭と名前が同じ山もありますから、祇園祭が伝播したものでしょうね。
寺田屋お登勢誕生地の碑、この碑は今年(平成25年)に建てられたものです。写真、たまたま首から上が写っていませんね。ものすげぇ美人を想像して下さい(爆)。
商店街を抜けると、東海道は広い道路になりました。赤十字病院の方に寄り道をすると蓮如旧跡の寺と犬塚。形として、蓮如さんの毒味をして死んだ犬を葬った塚です。この辺りに来るのは赤十字病院に知人の見舞いに来て以来です。ただ、見舞いの後でどこで飲んだのかがどうしても思い出せません。延々と歩いて膳所の方にドイツビールを飲みに行き、帰りに義仲寺を教えてもらったような気もするし、大津駅近くの串カツ屋に行ったような気もするし。まあ一時期はこの辺りをよくウロウロしていたということです。ミシガンにもよく乗りました。
広い道路を渡って大津宿本陣跡。草津では本陣がほぼそのままに残っていますから、なおさら惜しまれますね。
ややすすんで、蝉丸神社の下社です。京津線の線路が参道になっています。というか、参道が線路になったというところです。蝉丸や民というか道の者というかそう言った者についても書き始めるとなかなか大変ですから、今回は記しません。
以前ここを訪れたときには一人の狂女が境内にいて、落ち葉をかき集めては散じ、かき集めては散じる有様に如何にも蝉丸社という感じの凄まじい雰囲気を味わえたものですが、本日は我々以外には人はいませんでした。奥には蝉丸燈籠、これは全く知りませんでした。
現在のルートになる前の旧東海道線の名残、煉瓦の上を線路が通っていました。こちら側と結ぶ鉄橋はすでにありません。少し行くとまたまた蓮如さんの旧跡。そらそうですね。蓮如さんはこの道を何度も何度も歩かれてますからねぇ。しかも峠を越せば本拠地の山科本願寺。
道路から少し階段を上って逢坂山トンネル、かつての東海道線です。師匠によると現在はトンネルの奥に地震計が設置されているとのよし。入り口から15メートル程度しか奥には進めません。奥に扉があって、地震計はそのはるか奥に置かれているのでしょうね。ここなんか、何回も歩いているのに全く知りませんでした。いつも車道の反対側を歩いていたのだということにしておきますが、いつもの行き当たりばったりの徘徊を少し反省。
さらにすすんで蝉丸神社の上社。大師堂の前には車石が確認できます。この車石、この逢坂越えにはびっしりと敷き詰められていただけあって、この後も各所で見ることが出来ました。
逢坂峠です。小生はこれを大津市と京都市の境だと勝手に思い込んでいましたが、峠の向こうも大津市でした。峠には関跡の碑、さらに車石が整備されて置かれています。これは最近のことらしく、前に来たときにはありませんでした。ただ、関のあった正しい場所は分からぬようです。とっくにアスファルトか線路の砂利の下?あじさいがこれから満開を迎えようとしています。
峠を越えて少し行ったところにまたまた蝉丸神社、先の2社は正確には関蝉丸神社、こちらは単なる蝉丸神社です。峠の鰻屋は大盛況。
オブジェになった車石や日清戦争の記念碑などがあります。車石は近隣の家の庭石としても使われています。街道にびっしりと敷き詰められていたのだから、とにかくたくさん残っています。
走井餅本家の碑や大津算盤の碑、道標など見ながら追分へ。走井餅は今は大津と八幡で求めることが出来ます。他にもあるやろな。
現在の追分からもう少しだけ東海道が続きますが、京津線の追分駅付近で東海道と京街道は分岐します。名神高速道路もこの付近で南下しますが、師匠によると旧東海道線、ひいては京街道の上を通るように建設されたそうで、地形の上からはやはりそうなるとのことです。
現代の追分
右東海道 左京街道
便宜上「京街道」の名を使用していますが、この付近ではべつにここから「京都」に行ける訳ではないので京街道の名はどこにもありません。むしろ「奈良街道」と言った方が自然なようです
観音さんが祀られているようです。
歩いているときは「何や何や?」と言っていた「皇塚」、調べたら「おうづか」で古墳の名残のようです。まあこの「ようです。」の連打に小生の勉強不足が露呈していますね。
延々と歩きますが、街道沿いには、これというものは残っていないようです(また言った)。一里塚に到着してやれやれと言うところです。
遠望
名神高速道路の土手の下の方に「名神起工碑」と「旧山科駅跡」の碑。1921年に東山のトンネルが開通するまでは、東海道本線はここを通って伏見に続いていました。名神高速道路はこの旧東海道線のレール跡を利用することから始まったとのことです。そしてこの旧東海道線は概ね京街道に沿うている。こういう交通関係の遺跡もいいですねぇ。
本日の行程は概ね終了ですが、随心院に寄っていきます。途中には大きなケヤキの木。同行の方の子達はここの幼稚園に通っていたとの吉野の桜。
深草少将が小野小町に会うために毎夜通ったとの話が伝わっています。古代からの豪族である小野氏の勢力範囲は広大かつ各地に広がっていて、いたるところに小野の地名を残しています。そういうところでは「小野といえば小町」と考えらる人が多くて、結果として各地に小野小町の伝説が伝えられることになります。従って墓などももう各地に存在することになるのですが、この随心院には小町がラブレターを埋めたとされる「文塚」や「小町井」の話が伝えられています。文塚の五輪塔、確かに古さを感じさせますね。
文塚
水の神を祀る権現堂 古都の文字はたぶん川端康成
小町井
随心院境内
さて、アルコールタイムは地下鉄で一つ「椥辻」に戻って串カツ屋。久しぶりに夏の徘徊のビールが戻ってきたという感じでした。だからウロウロは止められません。本当に暑かった。途次、梅干しやらっきょをご用意いただいたのもありがたかったですね。
師匠と小生がからむ徘徊では殆ど出ることのない焼き鳥に今一人の先生が随喜の涙を流しておられました。昼も鳥を食うて夜も食うとは罰当たりな。うちのおばあはんがおじいさんの死ぬ前に枕元で「おじいさん、鳥ばかり食べてたから、死んだらあの世でワーと鳥がつつきに来るわ。」とよく言っていて、亡くなった後も「いまごろ、おじいさん、鳥につつかれたはるわ。」等と(笑)。今頃はおばあはんもあの世で鳥軍団を作っておじいさんを攻撃していることでしょう。鶏肉嫌いもおばあはんから数えて3代目、由緒正しい好き嫌いであります(爆)。
追記 これからしばらく夜の飲み会が続きます。昼間にウロウロ出来ない状態で、そのまま飲み会です。従って次のブログの更新は早くても2週間先になりそうです。
集合場所は大津駅、京街道と言うことだけならば京津線の追分駅でもよいのですが、追分からだと見るものが少ない上に、昼飯を食う場所に難儀するという師匠の深謀遠慮に拠ります。まず、というよりも昼食場所に向かう途中にといった方がいいかも知れませんが、華階寺の大銀杏。本来は境内に有ったものが道路の拡幅により寺の境内が狭められた結果境内の外に出てしまった形になっています、
華階寺の門前には俵藤太矢の根地蔵の石標。藤原秀郷による三上山の大ムカデ退治にからむものでしょうね。残念ながら寺の門は固く閉ざされています。藤原秀郷の子孫は各地に広がっていますから、今や全ての日本人(近年にいたって帰化したという人は除いて)のDNAにその遺伝子が組み込まれているはずです。
本願寺の大津別院を見て、東海道に入ります。この辺りは宿場の雰囲気が良く残っていますが、如何せん人通りは少なく「しもたや」になっている店も多い感じです。滋賀県も各地に大型店ができていますから、こういう通りの古い商店街は本当にしんどいと思います。例えば、外国資本等の大型店を誘致する→地域の商店街が壊滅する→大型店が撤退する→跡には何も残らない、こんなことが地域の活性化と言えるのでしょうか?勿論、日本の大資本もこれに似たことを各地でやっています。今現在ある商店街が栄える方策を考えるならば、かつての大店法の復活も是とせねばなりません。日本はアメリカの植民地にあらず。だから何かを誘致することに必死になっている政治家もあきませんね。今、その地にあるものを活かさねばなりません。
ロシア皇太子(ニコライ、後のロシア皇帝ニコライ2世、ロシア革命時に家族共々銃殺される)が警備の警官に斬りつけられた大津事件の現場です。これをくだくだと語り出したらものすごい字数が必要ですので、話を一つに留めます。頭に怪我をした皇太子は近くの民家で応急処置を受けます。その時に流れ出る血を吸いこませた布を誰かが保管したのでしょうね。たしか今は大津市のものになっていると思いますが、シベリアで皇帝一家らしき遺体が発掘されたときにDNA鑑定を行うためにこの布が使われました。当時の大津市、1センチ切り取るのはやむを得ぬが2センチは困るとかなんとか、そんなことを言っていました。そんなモン、くれてやれよと思ったことを覚えています。
菰樽にはどうしても目を引き付けられますね。浅茅生というのは地酒でしょうね。滋賀の地酒といえば今津や新旭や木之本のもの以外は縁遠いのですが、甲賀の方にもいい蔵元があるようですね。
昼食場所は、町家を改造したティシャツ屋の奥、師匠が予約をして下さいました。残念ながら食堂の写真はありませんが、小生の好き嫌いであれこれと気を遣わせて申し訳ありませんでした。今度から好き嫌いの理由を聞かれたら宗教上の理由と答えます。何がいいかな?ジャイナ教、これなんかがいいけど、そうなると牛肉も食えんし、悪所にも出入り出来んしなあ。
この奥に食堂があろうとは!
昼食場所のすぐ近くに曳山資料館。大津祭の曳山が展示されています。京都の祇園祭と名前が同じ山もありますから、祇園祭が伝播したものでしょうね。
寺田屋お登勢誕生地の碑、この碑は今年(平成25年)に建てられたものです。写真、たまたま首から上が写っていませんね。ものすげぇ美人を想像して下さい(爆)。
商店街を抜けると、東海道は広い道路になりました。赤十字病院の方に寄り道をすると蓮如旧跡の寺と犬塚。形として、蓮如さんの毒味をして死んだ犬を葬った塚です。この辺りに来るのは赤十字病院に知人の見舞いに来て以来です。ただ、見舞いの後でどこで飲んだのかがどうしても思い出せません。延々と歩いて膳所の方にドイツビールを飲みに行き、帰りに義仲寺を教えてもらったような気もするし、大津駅近くの串カツ屋に行ったような気もするし。まあ一時期はこの辺りをよくウロウロしていたということです。ミシガンにもよく乗りました。
広い道路を渡って大津宿本陣跡。草津では本陣がほぼそのままに残っていますから、なおさら惜しまれますね。
ややすすんで、蝉丸神社の下社です。京津線の線路が参道になっています。というか、参道が線路になったというところです。蝉丸や民というか道の者というかそう言った者についても書き始めるとなかなか大変ですから、今回は記しません。
以前ここを訪れたときには一人の狂女が境内にいて、落ち葉をかき集めては散じ、かき集めては散じる有様に如何にも蝉丸社という感じの凄まじい雰囲気を味わえたものですが、本日は我々以外には人はいませんでした。奥には蝉丸燈籠、これは全く知りませんでした。
現在のルートになる前の旧東海道線の名残、煉瓦の上を線路が通っていました。こちら側と結ぶ鉄橋はすでにありません。少し行くとまたまた蓮如さんの旧跡。そらそうですね。蓮如さんはこの道を何度も何度も歩かれてますからねぇ。しかも峠を越せば本拠地の山科本願寺。
道路から少し階段を上って逢坂山トンネル、かつての東海道線です。師匠によると現在はトンネルの奥に地震計が設置されているとのよし。入り口から15メートル程度しか奥には進めません。奥に扉があって、地震計はそのはるか奥に置かれているのでしょうね。ここなんか、何回も歩いているのに全く知りませんでした。いつも車道の反対側を歩いていたのだということにしておきますが、いつもの行き当たりばったりの徘徊を少し反省。
さらにすすんで蝉丸神社の上社。大師堂の前には車石が確認できます。この車石、この逢坂越えにはびっしりと敷き詰められていただけあって、この後も各所で見ることが出来ました。
逢坂峠です。小生はこれを大津市と京都市の境だと勝手に思い込んでいましたが、峠の向こうも大津市でした。峠には関跡の碑、さらに車石が整備されて置かれています。これは最近のことらしく、前に来たときにはありませんでした。ただ、関のあった正しい場所は分からぬようです。とっくにアスファルトか線路の砂利の下?あじさいがこれから満開を迎えようとしています。
峠を越えて少し行ったところにまたまた蝉丸神社、先の2社は正確には関蝉丸神社、こちらは単なる蝉丸神社です。峠の鰻屋は大盛況。
オブジェになった車石や日清戦争の記念碑などがあります。車石は近隣の家の庭石としても使われています。街道にびっしりと敷き詰められていたのだから、とにかくたくさん残っています。
走井餅本家の碑や大津算盤の碑、道標など見ながら追分へ。走井餅は今は大津と八幡で求めることが出来ます。他にもあるやろな。
現在の追分からもう少しだけ東海道が続きますが、京津線の追分駅付近で東海道と京街道は分岐します。名神高速道路もこの付近で南下しますが、師匠によると旧東海道線、ひいては京街道の上を通るように建設されたそうで、地形の上からはやはりそうなるとのことです。
現代の追分
右東海道 左京街道
便宜上「京街道」の名を使用していますが、この付近ではべつにここから「京都」に行ける訳ではないので京街道の名はどこにもありません。むしろ「奈良街道」と言った方が自然なようです
観音さんが祀られているようです。
歩いているときは「何や何や?」と言っていた「皇塚」、調べたら「おうづか」で古墳の名残のようです。まあこの「ようです。」の連打に小生の勉強不足が露呈していますね。
延々と歩きますが、街道沿いには、これというものは残っていないようです(また言った)。一里塚に到着してやれやれと言うところです。
遠望
名神高速道路の土手の下の方に「名神起工碑」と「旧山科駅跡」の碑。1921年に東山のトンネルが開通するまでは、東海道本線はここを通って伏見に続いていました。名神高速道路はこの旧東海道線のレール跡を利用することから始まったとのことです。そしてこの旧東海道線は概ね京街道に沿うている。こういう交通関係の遺跡もいいですねぇ。
本日の行程は概ね終了ですが、随心院に寄っていきます。途中には大きなケヤキの木。同行の方の子達はここの幼稚園に通っていたとの吉野の桜。
深草少将が小野小町に会うために毎夜通ったとの話が伝わっています。古代からの豪族である小野氏の勢力範囲は広大かつ各地に広がっていて、いたるところに小野の地名を残しています。そういうところでは「小野といえば小町」と考えらる人が多くて、結果として各地に小野小町の伝説が伝えられることになります。従って墓などももう各地に存在することになるのですが、この随心院には小町がラブレターを埋めたとされる「文塚」や「小町井」の話が伝えられています。文塚の五輪塔、確かに古さを感じさせますね。
文塚
水の神を祀る権現堂 古都の文字はたぶん川端康成
小町井
随心院境内
さて、アルコールタイムは地下鉄で一つ「椥辻」に戻って串カツ屋。久しぶりに夏の徘徊のビールが戻ってきたという感じでした。だからウロウロは止められません。本当に暑かった。途次、梅干しやらっきょをご用意いただいたのもありがたかったですね。
師匠と小生がからむ徘徊では殆ど出ることのない焼き鳥に今一人の先生が随喜の涙を流しておられました。昼も鳥を食うて夜も食うとは罰当たりな。うちのおばあはんがおじいさんの死ぬ前に枕元で「おじいさん、鳥ばかり食べてたから、死んだらあの世でワーと鳥がつつきに来るわ。」とよく言っていて、亡くなった後も「いまごろ、おじいさん、鳥につつかれたはるわ。」等と(笑)。今頃はおばあはんもあの世で鳥軍団を作っておじいさんを攻撃していることでしょう。鶏肉嫌いもおばあはんから数えて3代目、由緒正しい好き嫌いであります(爆)。
追記 これからしばらく夜の飲み会が続きます。昼間にウロウロ出来ない状態で、そのまま飲み会です。従って次のブログの更新は早くても2週間先になりそうです。
京街道ですがそれは大阪からみたネーミングなんでしょうね。当日山科の追分からは奈良街道歩きと解釈してます。途中、醍醐街道という表示がありましたね。牛尾観音を案内する道標もあり、こと昔の道標は巡礼道に多い様な気がします。頻繁に通る商人などよりも恐らく初めて通ることが多い巡礼さんに優しい道案内が多いとと理解していますが、どうなんでしょう。峠越えなんかしていると目に付く為こんなこと考えてしまうのでしょうか。昔は旅をするのが難しく巡礼であれば少しはし易かったのでしょうか。
車石ですが、逢坂や東山越えにしか無かったのでしょうかね。関東ではどうなんでしょう。石畳で検索したら熊野古道ばっかし出てきますしね。まあこれは私も実際に歩いて実感しましたが。琵琶湖というスーパー街道による物流が大きな要素なのでしょうか。当時の世界的な大都会、江戸への物流は相当なものだったでしょうに、石道は発達しなかったのでしょうか、それとも私が知らないだけなのでしょうか。
締めの焼き鳥屋は東野と違って椥辻ですよ~。それと好き嫌いの言い訳に使える宗教探しですが、まあ全てを網羅してくれる宗教なんてありまへんで。お婆さんの枕言葉のシーン描写なかなかのものでしたから鳥に関してはバアバア教が、ということで了解しておきましょう。
椥辻、間違っていました。直しました。それどころか次回の集合場所も間違っていて(よっぽど東野が好きみたい)、「これでええですか?」と師匠に見てもらったら訂正が入りました。
昔、一時期「海老を食べてはいけない教」を標榜していて、知人の結婚式で前のオバハンが「あなた、どうして海老を食べないの?」と言ったので、「宗教上の理由です。」「何て宗教。」「海老を食べたらあかん教です。」とやったらオバハン、怒った怒ったという楽しい思い出があります。
京都~大津間の車石は篤志家が寄付したもののようですね。各地の街道でも石畳が敷かれているところはありますが、轍の跡がクッキリというのは、やはり往来の多さを示していますね。
Tシャツを売っているお店の奥で食事ができるなんて、地元の方でないとわからないで通り過ぎてしまうと思います。 とても良いところを教えていただきました。
「名神高速道路 起工の地」 を見ることができるとは、とてもうれしかったです。 しかも何故ここなの? 理由は解りませんが、ここから名古屋・神戸方面に道路が延びて行ったわけですね。
旧東海道線 山科駅 があったということは、東海道線が走っていたところを道路にしたわけですから、鉄道の大動脈を動かしても道路を作る必要があったわけですね。
よく解らないのですが、現在の山科の駅はかなり離れていますよね? ちょっと頭の中が混乱してます。
酒樽の「古都」川端さんは、我が家から歩いて20分くらいのところにお住まいでした。 今も使われているご自宅があります。
お酒が飲めるというのはとても楽しいことなのでしょうね。 今頃になって気が付きました。
それに比べ(?)、大津の商店街は悲惨な状況ではないですか。各地で見られる現象でしょうけど、暗澹たる思いで胸が塞がります。
津田に関するの小説は「凶徒津田三蔵」(藤枝静男)でした。この作者は大津事件を二度も題材にしています。もう一冊は確か「ある年の冬ある年の夏」です。私は大昔に読んで、もう忘れてしまいましたけど、gunさんにもし暇がありましたら(無いでしょうけど)読んでみてください。
人通りの皆無の資料館ながら、曳山の映像はかなり迫力がありました。観る人など居るのかどうか。勿体無い話です。
それもそうとして、さすがに蝉丸に縁の深い地域です。神社が3個所もあるとは。私は百人一首でしか知りませんけど、余程あの辺りに深く関わった人物なのでしょうか。百人一首の「坊主」としては、2倍の威力を持たせていましたが・・・。
車石も沢山拝見しました。以前の徘徊の折は、車の轍が通れる溝を掘った石と思っていましたのに、長年の往来で自然に筋道が通ったとか。人力の威力も中々凄いものと、改めて感嘆しました。
今回の徘徊も未知のものばかりですが、元山科駅の場所には驚きでした。随分と迂回していたものです。尤も、その方が我が家からは近いのですが。
歩いた距離は27000歩で、いつもよりむしろ少な目かも知れませんけど、炎天下でしたからコタエました。もう少し歩いていれば、そのまま何処かの寺でお世話になっていたかも知れません(断られた?)。
最後の随心院はあんなに大きい寺とは知りませんでした。木陰もあって、それに小町の文塚とか井戸など何かしら心の安らぐ思いでした。
歴史音痴の私は足手纏いと思いますが、また、涼しくなりましたらお供させて頂きます。有難うございました。
その後の飲酒(+食)タイムは失礼しました。ただ、gunが魚介や肉類で食べない種類に関して「宗教」を持ち出すのはヤバイかも知れません。相手が同じ万一同じ宗派だったら難儀しますので、「家系」だからとした方が無難ではないですか?
名神高速道路起工地、小生も全く知りませんでした。ただ、名神の工事が始まったときには東海道線は既に現在の線路を走っていました。名神が何故、東海道線や新幹線と併走していないのか、今回はそれがよく理解できました。
川端康成は晩年は鎌倉だったのですね。確か中学は茨木だったと思います。鎌倉のしっとりとした雰囲気に惹かれたのでしょうね。作家という寄り文士という言葉が似合う街という感じがします。小生などでも始めて江ノ電に乗ったときに鎌倉が近づいてくると何かワクワクとしたものです。
Tシャツ屋の奥、あれはわかりませんね。師匠のようにじっくりと観察する人でないと見つけられないように思います。しかも本場の長崎チャンポンを出していましたね。
お酒、ほどほどが楽しいです。昔はよく後悔しましたよー。
大津事件、小生は最初は司法の独立などはどうでもいいことで、ロシア皇太子を助けた車夫に興味がいきました。花背の人だったと言うことで興味津々、ロシアからの年金で大金持ちになりましたが、日露戦争中は肩身が狭かったようです。小説では佐木隆三の「勝ちを制するにいたれり」を読みましたが、ラストシーンで伊藤博文が「裁判官とは頑固なものだな」と苦笑いをするところが何か爽やかでした。
蝉丸は、うまく言えませんが民と皇室のつながりの象徴のように思われます。逢坂越えにかかる坂の下にいる多くの物乞いのリーダーという感じもします。
大津祭、今までは名前しか知りませんでしたが、秋とのこと、日にちが合えば一度見に行きたいですね。
家系、祖母も母も海老や蟹は食べます。鰻は食べませんが貝類は食べます。全部食べない小生の方が節操があります。うちの家はチキンエッセンスの入った食品は買わないので見つけるのがなかなか大変です。猫にも「鳥ささみ」ナンチャラというエサは与えません(爆)。
江戸の物流はもっと多かったはずなのに舗装されなかったのでしょうか疑問が残ります。これは徳川幕府が大砲などが気楽に運ばれたら困るという政策の影響もあるのでしょうかね。かの司馬遼太郎は街道を行くで、日本人は人が通れる道しか作ってこなかったと書いていたように記憶していますが。従って昔の大量貨物の物流は水運が活躍したことでしょう。これは現在でもそうですが...
そうか坂東のことは鎌倉街道さんに聞かないと、、、
宗教と食事の関係を一度詳細に調べたら如何。「海老を食べたらあかん教」よりも少しは格好良いかも。まあ食材により使い分ける方法ですね。その為には徘徊道さんはまさに多神教徒にならんとあきまへん(^o-) なおこの件ですが、我が職場にこれはどう?って聞くと半分以上NOの返事が帰ってくる人物がおります。それに比べたら徘徊道さんはまだまだそのいきに達しておりません。堂々と行きましょう。ようそんなもん食っとるなあと開き直ってたらよろしいのでは(^^)
初期東海道線のルートですが、地形図を見ると上手く峠を避けていますね。平城京の時代にはすごい道路網があったそうで、それは今の高速道のルートに重なるのが多いそうです。粘菌の動きと道のルートの関連性もあるそうです。これは昔の峠道にも当てはまりまして、峠はどの辺りかはこれから越え用途する稜線を見たらほぼ一発でわかりますね。
mfujino様、車石の話、ありがとうございます。師匠のメールの転送も確かにいただきました。やはり明治以前の物資輸送の中心は船運だったのでしょうね。身近な港から京都にいたる道を舗装したのですね。そういえば、中世の東海道なんかは悲惨なもので嵐が来たり大潮だったりしたら海縁の道は全く歩けなかったと何かで読んだことがあります。近世でも瀬田の唐橋など通らずに、天気がよければ舟で草津と大津は結ばれていたようです。けれども所謂鯖街道のように小商人が重い荷物を背負ってテクテクと歩いた道も確かに存在していますね。ご指摘のように江戸幕府の政策も影響しているでしょうね。
律令制下の大道、よう作ったなぁと思いますね。一度、みんなで姫路付近の山陽道の残道を歩けたらいいですね。けど、東山道なんかは本当に真っ直ぐな道を造ったのでしょうか?基本は畿内と大宰府を結ぶ山陽道だけなのではと疑っています。
職場の人、尊敬します(爆)。
私は、巡査津田三蔵の凶刃の第二撃を防ぎ、皇太子を守った人力車夫二人のその後の運命にたいへん興味を持ちました。
犯人の足にタックルして倒したのが向畑(さきはた)治三郎(38歳)、倒れた犯人からサーベルを奪い、逆に切りつけたのが、北賀市(きたがいち)市太郎(33歳)です。
向畑は京都府愛宕郡花背村の農家の出、北賀市は石川県江沼郡庄村の農家の出で、二人はともに京都で車夫をしていて大手柄を立てたわけです。
日本政府から勲8等に叙せられ終生年金36円を与えられます。(当時巡査の初任給7円で、36円は一般家庭の1年分の十分な生活費)
まあこれで終わっていたら平穏な人生が送れたかもしれません。
しかし、皇太子二コライは5月17日、お召し艦に二人を招いて、感謝の言葉とともに、年金1、000円と恩賞金2、500円を下賜するといいました。1、000円と言えば、当時の国会議員の年収であり、これを毎年もらえるというのです。また一時金の2、500円も膨大な金額です。この2500円は当時の10円札で250枚、キャッシュでもらいましたが、風呂敷などなかったので車夫の被る饅頭笠で受け取ったそうです。二人とも顔色はまっ青、身体はこきざみにふるえていたそうです。
今でいえば、高額宝くじに当たったようなものでしょう。
さてこの後、二人の生活は、いや運命はどうなるのか?、
今日はここまでです。もったいをつけるわけではありません。調べて、転記するだけなんですが、正確さを心がけると、けっこう疲れますので・・・・悪しからず。