本日も浪花散歩、このところ大阪が続くのには深ーい理由であるのであります。それは他でもない携帯電話のことやが(先代文枝の落語風に)、わからんことやら不具合やらでしょっちゅうドコモショップを訪ねんなならん。けれどもこの手の店はどこも大入り満員でヘタに郊外の店を訪ねたりしたら1時間は待たされる。そこで無い知恵を働かしたんやが、休日のビジネス街の店はどうやろうと。
これがもう大当たりで、店に入った瞬間に「何ですねん。」と聞いてくれる。用がはよ済む分、ウロウロ出来るという訳や。
ということで、先ずは大阪市庁舎前、「御堂筋何ちゃら」の準備とかでたいそうなことをやっています。本日は、土佐堀川左岸に沿って西に赴くことにしました。御堂筋を渡るとすぐに「駅逓司跡」の碑。今は日本銀行大阪支店になっています。
錦橋の前には江戸時代の橋の番付表が陶板に焼きつけられたものがあります。東の大関は「天神橋」で西の大関は「難波橋」。位置関係から決めたものでしょうね。
錦橋の上にも何やかやと楽しめるものがあります。橋の上から振り返れば淀屋橋。
肥後橋にやって来ました。ここを渡ればどうしょうも無い新聞社の大阪支店、アホなアホな気を吸わぬように息を止めて通過します。
肥後橋と筑前橋の間に「水上龍太郎文学碑」、明治時代の作家で『三田文学』を再発刊した人だそうです。ですから本来は東京の人です。小生は初めて其の名を知りました。
筑前橋を越えると大阪市科学館。昔は四ツ橋にあった電気科学館がその前身ですね。肥後橋といい、筑前橋といい、江戸時代にそれぞれの国を治める大名の蔵屋敷があったことが名前の起源になっています。
プラネタリウムに一瞬触手が動きましたが、20分ほど待たねばならぬということでパス、西に進みます。
常安橋は豪商淀屋の初代の号を採ったものですね。この橋と土佐堀橋の間には歩道橋のような小さな橋が架けられています。
土佐堀橋にやって来ました。さらに進んで湊橋、これをこのまま進むとまたまた川口の方に行ってしまいますので、土佐堀通に沿った徘徊はここで終了、北西に向かいます。堂島川を越えるには上船津橋。新なにわ筋を北西に進みます。
土佐堀橋
湊橋
上船津橋
マンションの一角に常夜燈、いずこのお宮さんのものか。ここらだとやはり恵比須神社のものでしょうか。
旧福島村です。ここいらはだいぶ前にウロウロしましたね。昔の雰囲気がわりと良く残っています。
こちらの恵比寿神社は事代主命を祀っています。大国主命の息子さんですね。ということは出雲系。まあ、えべっさんの場合はそういうややこしい議論を抜きにして商売繁盛のためにぐんぐんと広がっていった感じではありますが。
境内には日露戦争の戦勝記念碑や保護されている野田藤の鉢などがあります。
圓満寺の前には二十一人討ち死にの碑、変質者である細川勝元が一向宗の証如を襲ったときにこれを守って討ち死にした門徒の碑です。これは前にもちょっと書きましたね。このことを記した証如の手紙が公開される日もあるようです。
以前は駅前にあった野田城跡の碑は野田御坊弘法寺の門前に移されていました。前に有ったところよりもしっくりとしている感じです。
野田阪神までやって来ました。野田・海老江と言えば、昔ちょっと気になったオネェチャンが住んでいたところ。今見かけても解らないでしょうね。
ここまで来たらーと松下幸之助さんの創業の地を見に行きます。一万分の一でも心構えを見習わねばなりません。大開の細い商店街を抜けていきます。
現在は公園となっている一角に創業の碑があります。この公園が工場跡だそうです。
西野田工科高校のフェンスに最初に住んでおられた住居跡のプレートが貼り付けてありました。支那語とハングルが目障りです。まあ、それはともかくとして大きく深呼吸して気を体と心に充満させねばなりません。今は亡き花登筐ならばここで主人公に何か独白させるところですね。「松下はん、見てておくんなはれ。」とか。小生も誓いまひょ。「八百八橋を全部渡るでー。」と。
そのまま、環状線野田駅から京橋に行き、本日も満足屋。こんなことをしているようでは立身はかないませんね。
これがもう大当たりで、店に入った瞬間に「何ですねん。」と聞いてくれる。用がはよ済む分、ウロウロ出来るという訳や。
ということで、先ずは大阪市庁舎前、「御堂筋何ちゃら」の準備とかでたいそうなことをやっています。本日は、土佐堀川左岸に沿って西に赴くことにしました。御堂筋を渡るとすぐに「駅逓司跡」の碑。今は日本銀行大阪支店になっています。
錦橋の前には江戸時代の橋の番付表が陶板に焼きつけられたものがあります。東の大関は「天神橋」で西の大関は「難波橋」。位置関係から決めたものでしょうね。
錦橋の上にも何やかやと楽しめるものがあります。橋の上から振り返れば淀屋橋。
肥後橋にやって来ました。ここを渡ればどうしょうも無い新聞社の大阪支店、アホなアホな気を吸わぬように息を止めて通過します。
肥後橋と筑前橋の間に「水上龍太郎文学碑」、明治時代の作家で『三田文学』を再発刊した人だそうです。ですから本来は東京の人です。小生は初めて其の名を知りました。
筑前橋を越えると大阪市科学館。昔は四ツ橋にあった電気科学館がその前身ですね。肥後橋といい、筑前橋といい、江戸時代にそれぞれの国を治める大名の蔵屋敷があったことが名前の起源になっています。
プラネタリウムに一瞬触手が動きましたが、20分ほど待たねばならぬということでパス、西に進みます。
常安橋は豪商淀屋の初代の号を採ったものですね。この橋と土佐堀橋の間には歩道橋のような小さな橋が架けられています。
土佐堀橋にやって来ました。さらに進んで湊橋、これをこのまま進むとまたまた川口の方に行ってしまいますので、土佐堀通に沿った徘徊はここで終了、北西に向かいます。堂島川を越えるには上船津橋。新なにわ筋を北西に進みます。
土佐堀橋
湊橋
上船津橋
マンションの一角に常夜燈、いずこのお宮さんのものか。ここらだとやはり恵比須神社のものでしょうか。
旧福島村です。ここいらはだいぶ前にウロウロしましたね。昔の雰囲気がわりと良く残っています。
こちらの恵比寿神社は事代主命を祀っています。大国主命の息子さんですね。ということは出雲系。まあ、えべっさんの場合はそういうややこしい議論を抜きにして商売繁盛のためにぐんぐんと広がっていった感じではありますが。
境内には日露戦争の戦勝記念碑や保護されている野田藤の鉢などがあります。
圓満寺の前には二十一人討ち死にの碑、変質者である細川勝元が一向宗の証如を襲ったときにこれを守って討ち死にした門徒の碑です。これは前にもちょっと書きましたね。このことを記した証如の手紙が公開される日もあるようです。
以前は駅前にあった野田城跡の碑は野田御坊弘法寺の門前に移されていました。前に有ったところよりもしっくりとしている感じです。
野田阪神までやって来ました。野田・海老江と言えば、昔ちょっと気になったオネェチャンが住んでいたところ。今見かけても解らないでしょうね。
ここまで来たらーと松下幸之助さんの創業の地を見に行きます。一万分の一でも心構えを見習わねばなりません。大開の細い商店街を抜けていきます。
現在は公園となっている一角に創業の碑があります。この公園が工場跡だそうです。
西野田工科高校のフェンスに最初に住んでおられた住居跡のプレートが貼り付けてありました。支那語とハングルが目障りです。まあ、それはともかくとして大きく深呼吸して気を体と心に充満させねばなりません。今は亡き花登筐ならばここで主人公に何か独白させるところですね。「松下はん、見てておくんなはれ。」とか。小生も誓いまひょ。「八百八橋を全部渡るでー。」と。
そのまま、環状線野田駅から京橋に行き、本日も満足屋。こんなことをしているようでは立身はかないませんね。
国内のことだけを考えて生きていけない時代になったということでしょう。
トップの写真は御堂筋での行事のために持ってきたチンチン電車?またはトロリーバス?だと思います。今は既に撤去されているはずです。その昔関一市長が御堂筋を造ったときに「空港でも造るんかいな?」といわれたということですから、御堂筋はまずまず広いですね。
大阪城も行かれたようですね。中央区は結構緑があると思います。
松下電器、何でパナになったのか分かりません。ナショナルブランドで十分だったのではと思います。
大阪の見方が少し変わりました。意外と緑が多く美しい。大阪城から見た景色は、新緑の時期でもあり、きれいでした。
6車線の一方通行、驚きました。名古屋でも見たことがないような! ちょっと路地を入ると道路は広いのに車は走っていない?どうしちゃったのでしょう。
ただただ長ーい商店街、翌日も連れて行っていただきましたが、どうしてあのように長くしたのでしょうね。
松下幸之助さんに関しては、なんでパナソニックになってしまったのでしょう。
中之島のバラ園はぼちぼちでしょうね。来週あたり他に予定が入らなければ偵察に行こうと思っています。もうぼちぼちドコモショップは卒業なのですが。
八百八橋、本気になると先ずは今までに渡った橋のリストから作らねばなりませんね。狭い意味での「大坂」には808も橋は無いでしょうから、現在の大阪市内ということでしぼろうかな等と思います。
今回は浪花の橋ですね。実は春休みにせがまれて京セラドームに行って来ました。今回で4回目です。前回は泊まりで行きましたから、翌日なにわクルーズで中之島界隈の景色や橋を楽しみました。今頃はバラ園が賑わっていることでしょう。バラ園は方々にありますが、何といっても水辺にある中之島バラ園が最高のロケーションで、暑い中にも爽やかな大阪の風が通りますから大好きになりました。次に行く時はぜひ写生をしなくては・・・。
京セラドームの辺りには『泥の河』の舞台になった川がありましたね。名前も内容もすっかり忘れましたが。
gunkanatagoさんが全部廻られることを期待してま~す。
私は京都八百八寺のうち記帳しているのは130寺ほどです。これも回りたいのですが、気が遠くなりそう・・・。
橋を今までにいくつ渡ったか、考えてみたら分からないですね。これからはしっかりと帳面などにつけていかなければならないですね。川はかなり浄化が進んでいて、道頓堀川をプールにする計画もあるようです。見た目はまだまだですけど。
小生もプラネタリウムは四ツ橋の電気科学館で見たきりです。今はいろんなプログラムがあるようで、一度入って見たいなと思っています。
小生は国立文楽劇場は前を通るばかりで見たことがありません。ずっと以前に、「あんな、もっちゃりとしたもん、見に行く人は無いわなぁ。」と家族につぶやいたら、「何でよー!」と逆襲を受けました。実は小生以外はみんなファンで、劇場にも月一で足を運んでいたのでした。相撲なども小生が知らぬ間にみんながファンとなり、大阪場所も何度か見に行ったようです。和知の人形浄瑠璃を知った今は「もっちゃりしている」等とは絶対に言いません。
あ!書物では曾根崎心中も国姓爺合戦も読みましたよ。
蜆川は今も跡を辿ることはできますね。
錦橋とか名称は忘れましたけど、この辺りは私にも懐かしい場所です。ただ、大阪の川は汚くてどうも馴染めません。橋の立派なのは確かです。
肥後橋の辺りも、仕事で頻繁に行きました。ついでに、A新聞社1階の本屋へもよく寄ったものです。未だ、近くに例の大型店が無い頃です。
水上龍太郎と言えば「大阪の宿」の作者ではなかったですか。大阪が好きなのでしょう。五所平之助の監督で映画になりました。何だか女関係のドロドロした内容だった記憶があります。駆け出しの乙羽信子が中々のものでしたが。
電気科学館は移動して名前も変わったとか。私が国民学校1年生の頃ですから70年近く昔になります。逓信局に務める叔父に連れてもらってプラネタリウムを見た記憶があります。場所もこの近くでしたか。
係員が、懐中電灯の光で星を指しながら説明していたことを覚えています。その後はご無沙汰ですが。
野田阪神は幸之助創業と居住の地なのですか。gunさんにも、殊のほか思慕の深い場所みたいですけど。
もう1つ大切な誓いの言葉をお忘れではないでしょうか。→「八百八酒を全部飲み尽くすでぇ」
お、幸之助さんに「八百八橋を全部渡るでー。」と誓われたそうで、これは楽しみであります。
今回の辺りで我が思い出は、曽根崎心中を国立文楽劇場で鑑賞し、シェイクスピアなんて足許にも及ばない近松さんのかの道行きの名文に感じ入りました。その中に出てくる;
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「鐘ばかりかは 草も木も 空もなごりと見上ぐれば 雲心なき水の音 北斗は冴えて影映る 星の妹背(いもせ)の天の川 梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りて いつまでも 我とそなたは婦夫星(めおとぼし)かならず添うと縋(すが)り寄り 二人がなかに降る涙 川の水嵩(みかさ)も増(まさ)るべし」
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この梅田橋を求めて、古地図を購入したり自転車で徘徊したものです(蜆川に架かっていたようです)。