敏馬の字は「みぬめ」と読みます。阪神電車で言うと岩屋駅から新在家駅あたりまでの海岸線を万葉の時代から「みぬめのうら(敏馬の浦)」と言っていたようです。その昔は、須磨や明石へと続く海岸で、やはり風光は明媚でありました。写真の敏馬神社の直ぐ前は白砂青松の海岸で、この神社はそういう浜辺に突き出た高台の上に鎮座していました。今は海人の釣り船ならぬ自動車が真ん前の国道43号線となったかつての浜を繁く往来しています。
この神社は、そういったことを学習してもらうことにも熱心で、神社内の掲示やパンフがかなり充実していて、その掲示を読めば、明治時代でもなお万葉の景色を残していたものが、やはり阪神工業地帯の形成とともに眼前の海が埋め立てられて、海岸線が遠くなり、気がつけば工業地帯の中に取り残された形になってしまっていたということもよく解ります。
万葉集には、結構数多くこの浦を読んだものが見られますが、神社でくれるパンフも本当に丁寧で古今・新古今ばかりか蕪村や呉春の句まで載せてくれていますから、素人の下調べは全く不要であったなあというところになります。境内に歌碑もある人麻呂の歌は「玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に舟近づきぬ」というもので、柿本朝臣人麻呂が覊旅の歌八首の中の一種、この次が「淡路の野島の崎の浜風に妹が結べる紐吹き返す」となり、折角彼女が結んでくれた紐が外れてしまったやんけということで、その後藤江の浦を経て有名な「燭火の明石大門に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず」と「天ざかる夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」に続いていきます。
また、少し時代は下り、大伴旅人は大宰帥となって九州に下りますが、赴任中に同行した妻を喪います。この妻「大伴郎女(普通名詞やんけ)」を偲んだ歌では、やはり鞆の浦の「我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」が知られますが、敏馬にも「妹と来し敏馬の崎を還るさに独りし見れば涙ぐましも」
と「行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも」という同種の感慨を歌ったものが残っています。
人麻呂といい、旅人といい1200年も1300年も昔の人の旅の後を、現代でも辿って、それなりにものを思うことが出来ることは、なかなかすばらしいことです。万葉集では、これまた有名な山部赤人も、この敏馬を詠んでいます。
敏馬神社から東に少し歩けば、「西求女塚古墳」です。前方後方墳であるこの古墳、非常に古いもので3世紀の築造といわれています。「卑弥呼の鏡だ!」、「いやそうではない。」と学会を二分せしむる三角縁神獣鏡が七面も出土している、しかも近年は三角縁神獣鏡の研究が進み、鋳造時期が概ね4期に分けられる中で1期のものが出土しているということで、往時此の辺りを支配した首長墓でありましょうが、卑弥呼やその後継者の臺與の時代をそうは下らぬものであります。これが伝承では葦屋菟原処女をめぐって争った二人の男のうちの一人の墓ということになります。
三角関係といっても女性が何かアクションをおこしたということは全くなく、単に美貌に生まれ機嫌良く生きているうちに勝手に男どもが「わが妻に。」と言いだしたのですから、放っておけば良いのに、それを苦にして自殺、男どもも後を慕ったという話ですが、菟原処女の墓とされる前方後方墳「処女塚古墳」もすぐ近くにあります。今はきれいに整備されてしまいましたが、かつての草茅々たる墳丘部に石碑がぽつんと建っている風景の方が往古を思うによかったのですが、まあこれはグチになるでしょう。
処女塚古墳のすぐ近くには清酒「福壽」の神戸酒心館があり、ここで食前酒として試飲などをして、阪神新在家駅前の「日の出もり家」で高砂名物の「にくてん」なと食いながら飲むのが嬉しいのですが(多分、にくてんが食える一番東端の店かと考えます)、この店の定休日がどうしても覚えられないので、行ってみて休んでいたら外れということになります。そう言う場合は更に東に赴けばここは灘五郷の酒所ですから、多くの酒蔵の資料館で試飲を重ね重ね魚崎郷に着くころには結構できあがることになります。魚崎には谷崎潤一郎の倚松庵が移築されていますから、その2階で六甲からの涼しい風にあたって酔いを醒ますのもよいでしょう。
この神社は、そういったことを学習してもらうことにも熱心で、神社内の掲示やパンフがかなり充実していて、その掲示を読めば、明治時代でもなお万葉の景色を残していたものが、やはり阪神工業地帯の形成とともに眼前の海が埋め立てられて、海岸線が遠くなり、気がつけば工業地帯の中に取り残された形になってしまっていたということもよく解ります。
万葉集には、結構数多くこの浦を読んだものが見られますが、神社でくれるパンフも本当に丁寧で古今・新古今ばかりか蕪村や呉春の句まで載せてくれていますから、素人の下調べは全く不要であったなあというところになります。境内に歌碑もある人麻呂の歌は「玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に舟近づきぬ」というもので、柿本朝臣人麻呂が覊旅の歌八首の中の一種、この次が「淡路の野島の崎の浜風に妹が結べる紐吹き返す」となり、折角彼女が結んでくれた紐が外れてしまったやんけということで、その後藤江の浦を経て有名な「燭火の明石大門に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず」と「天ざかる夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」に続いていきます。
また、少し時代は下り、大伴旅人は大宰帥となって九州に下りますが、赴任中に同行した妻を喪います。この妻「大伴郎女(普通名詞やんけ)」を偲んだ歌では、やはり鞆の浦の「我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」が知られますが、敏馬にも「妹と来し敏馬の崎を還るさに独りし見れば涙ぐましも」
と「行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも」という同種の感慨を歌ったものが残っています。
人麻呂といい、旅人といい1200年も1300年も昔の人の旅の後を、現代でも辿って、それなりにものを思うことが出来ることは、なかなかすばらしいことです。万葉集では、これまた有名な山部赤人も、この敏馬を詠んでいます。
敏馬神社から東に少し歩けば、「西求女塚古墳」です。前方後方墳であるこの古墳、非常に古いもので3世紀の築造といわれています。「卑弥呼の鏡だ!」、「いやそうではない。」と学会を二分せしむる三角縁神獣鏡が七面も出土している、しかも近年は三角縁神獣鏡の研究が進み、鋳造時期が概ね4期に分けられる中で1期のものが出土しているということで、往時此の辺りを支配した首長墓でありましょうが、卑弥呼やその後継者の臺與の時代をそうは下らぬものであります。これが伝承では葦屋菟原処女をめぐって争った二人の男のうちの一人の墓ということになります。
三角関係といっても女性が何かアクションをおこしたということは全くなく、単に美貌に生まれ機嫌良く生きているうちに勝手に男どもが「わが妻に。」と言いだしたのですから、放っておけば良いのに、それを苦にして自殺、男どもも後を慕ったという話ですが、菟原処女の墓とされる前方後方墳「処女塚古墳」もすぐ近くにあります。今はきれいに整備されてしまいましたが、かつての草茅々たる墳丘部に石碑がぽつんと建っている風景の方が往古を思うによかったのですが、まあこれはグチになるでしょう。
処女塚古墳のすぐ近くには清酒「福壽」の神戸酒心館があり、ここで食前酒として試飲などをして、阪神新在家駅前の「日の出もり家」で高砂名物の「にくてん」なと食いながら飲むのが嬉しいのですが(多分、にくてんが食える一番東端の店かと考えます)、この店の定休日がどうしても覚えられないので、行ってみて休んでいたら外れということになります。そう言う場合は更に東に赴けばここは灘五郷の酒所ですから、多くの酒蔵の資料館で試飲を重ね重ね魚崎郷に着くころには結構できあがることになります。魚崎には谷崎潤一郎の倚松庵が移築されていますから、その2階で六甲からの涼しい風にあたって酔いを醒ますのもよいでしょう。
寺院などは、昔の姿のままに復旧しましたが、神戸の町並みは震災後にはガラリと変わりましたね。最近はようやく慣れてきましたが、三宮周辺ですら、戸惑ったものです。
神戸で、明石焼きを食べさせる店は中央区近辺については全て調査致しました(と豪語しておきます)。とある店の「神戸尽くし」、明石焼きと神戸牛と神戸ワインの3点セットで何と千円、を食べに行きましょうか?
玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に舟近づきぬ 柿本人麻呂
建設会社に勤める友人が、震災後すぐに被災状況を調べるために倒壊した阪急伊丹駅内に入ったそうですが、「どのように揺れたらこうなるのだ!」と思うぐらい鉄筋も何もねじ切れていたそうです。
歴女、少なくとも小生の行くところでは見ないですね。逆にこちらは京都市内の観光寺院や名所には行きませんから、永久にお目にかかれないかも知れません。
話題が逸れてすみませんが、10年一昔とはよく言ったもので、あの阪神大震災が語られるのは1月だけになってしまいました。電柱の根本が折れていたり、マンション一階のガレージがペシャンコになっていたり、前回した街中を歩いて行ったことを思い出してしまいました。
今歴女ブームというのがあるらしいのですが(もう終わったのかしら?)、彼女達はどこを徘徊しているのでしょうか?徘徊の名人さまのブログを歴女達が夜な夜な訪れるとなると、そのブームはほんまもんなのでしょうがね(^_*)
葦屋菟原処女の話には続きがあり、処女の墓が処女塚、これを挟んで東求女塚、西求女塚と男どもの墓が造られたのですが、どちらの墓でしたでしょうか処女塚から片方の塚に草が伸びて、処女の心意がどちらにあったのかが判ったのだと云々。東求女塚古墳は今はもう無くなってしまっています。
清酒、「敏馬の浦」は西郷の沢の鶴の銘柄で、資料館で見たような気がします。多分沢の鶴の最上級銘柄ではなかったかということで今のところ縁がありません。先日、白鹿を訪ねたときに1升20万円の酒があり、「買うんだったら1割引いてもらえるようにしてあげるよ。」などとも言ってもらったのですが、「そんな酒を飲んだら口が焼けるで。」と断りました。「敏馬の浦」もその手のものではなかったかなと思います。
一昨日も同好会の集りのついでに時間があったので、由緒深い岡崎神社へ寄ったのですが、数本の桜が咲いているものの訪れる人もほとんど無くて、ひっそり閑としたものでした。ここは子授けの神らしいのですが、何を思ったか若い女子大生(らしい)の2人連れが、やっと辿り着いた、とふうふう言いながら参拝していました。何処かから歩いて来たらしいです。
敏馬神社は、中々にしっかりした姿勢が見られる様ですが、敏馬の浦は今でも昔の面影は留めているのでしょうか。私にはまるで椽の無い土地に思えます。それにしても、伝説の女性は何と心優しいのでしょう。好きになられたことが罪、などと聞くだけで涙が零れそうです。思いの叶わなかった男が死ぬのは当然ですが・・・。
灘の銘酒に入るのかどうか、純米大吟醸 「敏馬の浦」は有名とか。徘徊堂さんのお好みかどうかは存じませんが。