本日は、吉例の大文字集会。斜めから五山の送り火を見る前に師匠の案内でちょっとウロウロします。オッ!写真の端っこに我々の一向が写っていますねぇ(嘘)。
集合は京阪の清水五条駅、一旦橋を渡り植治の庭や京電の線路跡などを見た後、再び鴨川右岸に戻り、旧村井銀行(トップの写真)から伏見街道を南下します。京阪電車もよりによって五条の前にアホな寺の名前なんか付けんでもいいのにと思います。どうせなら、五条楽園駅にして欲しかった(爆)。あの年末にいつも恥さらしをしている坊主、今度はCDで講話集発売だとさ。お釈迦さんがこういう事をされたであろうかと考える知恵も無いのですな。
途中で仁丹の住居表示を見た後、方広寺へ。今では往時を偲ばせるものは立派な石垣と例の釣鐘だけです。
大仏殿跡
東山通を馬町へ。馬町の由来は鎌倉幕府と六波羅探題に絡み、六波羅から鎌倉に送る馬をつないだ場所ということです。師匠によると大東亜戦争時に、京都に於いて死者が出るような大規模な空襲にみまわれたのは馬町と西陣だそうです。師匠はこの石垣の焦げ目が、どうも大阪城天守閣の石垣とよく似ているということで、これは空襲の名残ではないかとにらんでおられます。
この辺りの地理感というか様子を全然つかんでいないので、どこをどう歩いたかは分からぬままに「佐藤継信・忠信兄弟の供養塔跡」へ。供養塔そのものは今は京都国立博物館の庭に移されているということです。
供養塔の無くなった今もしっかりと祀られている。
渋谷街道
浄土真宗各派の門主の苗字は、この辺りの地名に由来し、本願寺派の大谷さんはこのすぐ近くの大谷御廟のある辺り、仏光寺派の渋谷さんはこの付近が苗字の地ですね。
馬町
道標
高槻の三嶋から移されたという三嶋神社、建春門院平滋子(たいらのしげこ=清盛の妻の妹)が平重盛に建立させたという神社です。祭神は大山祇大神・天津日高彦火瓊々杵尊・木之花咲耶姫命といいますから、天孫夫妻とその舅ということになります。手前の石は義経の伝説を伝える影向石です。平氏ゆかりの神社でも、この時期のものともなれば、どうしても義経を登場させる必要があるみたいですね。
南に下って香雪院。聖天さんです。ここいらになると全く未知のところばかりで、小生などはまだまだ京都を知っているとは言えません。聖天さんと言えば大阪では生駒の聖天さんが有名ですが、人だらけの生駒に対し、こちらの方は我々以外は誰もいません。こんないいところがこんなところに、まさに師匠が最近唱えておられる非観光地観光の精髄。
お百度の回り石
やっぱり聖天さん
細い道を抜けて新日吉神宮へ。今地図を改めてみると智積院は明らかに豊国廟への参拝を阻むために作られたものだということが分かりますが、この新日吉神宮が現在のこの地に移されたのは1897年といいますから、逆に太閤さんに関わりの深いお社ということで豊国廟の近くに持ってこられたものなのでしょう。御存じ太閤さんの幼名と伝えられるのは日吉丸。ですから後白河法皇が創建したというお社ですが、この地に移して豊臣スピリチュアル空間の一翼を担わせたものと考えられます。翌年の1898年には京都を挙げて太閤300年祭が行われました。
市街を見る
ここにかつてお昼のドンを鳴らした午砲の台座が移されてきています。
こま猿、やあ太閤さんが座ったはるとも。
ここから豊国廟のある阿弥陀ヶ峰は指呼の間です。指呼の間ですが誰も登ろうとは言いませんでした。
面白いのは、大きな常夜燈。堂々と大阪六遊郭の名が刻まれています。
新町と堀江は色々な意味で壊滅。北新地や南は盛り場としては今も栄えていますが、芸妓などは今もいるのでしょうか。松島は現役ですね(爆)。大きな遊郭に甲乙に分けたのですね。話は京都のことになってしまいますが、今の祇園には甲部はありますが、乙部は祇園東と名を変えています。甲乙とはどうも役所くさいとにらんだらヤッパリ、明治の初年にお上がそのような名称を付けたようです。
南のことを少し調べたら、芸妓中心の甲部と娼妓中心の乙部に分けられたといいますから、京都でも同様の区分があったのかも知れません。
だからかどうか分かりませんが祇園でも甲部の方に優越感というかそういうものがあるようで、かつて「四条より上にいったら一見さんでもあげてますえー」という言葉を甲部で聞いたことがあります。勿論言葉の上に「けしからぬことに」という意味が隠されています。アッ!聞いたのは路上であって、お座敷でではありません(笑)。
地蔵山墓地にはかつて京都府の書類などを戦災から守るための地下倉庫があったといます。師匠はその入り口があったのはココとにらんでおられるのですが、本日参加している土木の専門家からも水抜きの違いの指摘があり、まず間違いなかろうということ。師匠、後は夜中に掘るだけでっせ。三十三間堂の裏通り一帯は坂本龍馬など土佐にからむ志士たちの住んでいたところ。
三十三間堂南門
これはなんじゃ?という石造物が寺の門前にありました。
七条大橋を渡ります。土木の専門家に依れば、この古さなら川にいっぱい松杭をうってから構造物を建てるそうで、目立たぬ処にあるプレートも見つけてくれました。こういうのは自分一人ならば、絶対に見落としていますね。補修の跡なども専門家が見れば分かるようです。
橋を渡ってすぐに松明殿稲荷。何代目かの木食上人の寄進した手水があります。さらに柳原銀行の建物が残っているところ。
最後は輪形地蔵の車石。もうこの車石を見なければ一杯飲めぬしきたりとなっていますね。そのまま飲み会に突入です。斜めから見ても、やはり大文字は夏の終わりを強く感じさせますね。と思っていたら、その後の猛暑がすごかった。
集合は京阪の清水五条駅、一旦橋を渡り植治の庭や京電の線路跡などを見た後、再び鴨川右岸に戻り、旧村井銀行(トップの写真)から伏見街道を南下します。京阪電車もよりによって五条の前にアホな寺の名前なんか付けんでもいいのにと思います。どうせなら、五条楽園駅にして欲しかった(爆)。あの年末にいつも恥さらしをしている坊主、今度はCDで講話集発売だとさ。お釈迦さんがこういう事をされたであろうかと考える知恵も無いのですな。
途中で仁丹の住居表示を見た後、方広寺へ。今では往時を偲ばせるものは立派な石垣と例の釣鐘だけです。
大仏殿跡
東山通を馬町へ。馬町の由来は鎌倉幕府と六波羅探題に絡み、六波羅から鎌倉に送る馬をつないだ場所ということです。師匠によると大東亜戦争時に、京都に於いて死者が出るような大規模な空襲にみまわれたのは馬町と西陣だそうです。師匠はこの石垣の焦げ目が、どうも大阪城天守閣の石垣とよく似ているということで、これは空襲の名残ではないかとにらんでおられます。
この辺りの地理感というか様子を全然つかんでいないので、どこをどう歩いたかは分からぬままに「佐藤継信・忠信兄弟の供養塔跡」へ。供養塔そのものは今は京都国立博物館の庭に移されているということです。
供養塔の無くなった今もしっかりと祀られている。
渋谷街道
浄土真宗各派の門主の苗字は、この辺りの地名に由来し、本願寺派の大谷さんはこのすぐ近くの大谷御廟のある辺り、仏光寺派の渋谷さんはこの付近が苗字の地ですね。
馬町
道標
高槻の三嶋から移されたという三嶋神社、建春門院平滋子(たいらのしげこ=清盛の妻の妹)が平重盛に建立させたという神社です。祭神は大山祇大神・天津日高彦火瓊々杵尊・木之花咲耶姫命といいますから、天孫夫妻とその舅ということになります。手前の石は義経の伝説を伝える影向石です。平氏ゆかりの神社でも、この時期のものともなれば、どうしても義経を登場させる必要があるみたいですね。
南に下って香雪院。聖天さんです。ここいらになると全く未知のところばかりで、小生などはまだまだ京都を知っているとは言えません。聖天さんと言えば大阪では生駒の聖天さんが有名ですが、人だらけの生駒に対し、こちらの方は我々以外は誰もいません。こんないいところがこんなところに、まさに師匠が最近唱えておられる非観光地観光の精髄。
お百度の回り石
やっぱり聖天さん
細い道を抜けて新日吉神宮へ。今地図を改めてみると智積院は明らかに豊国廟への参拝を阻むために作られたものだということが分かりますが、この新日吉神宮が現在のこの地に移されたのは1897年といいますから、逆に太閤さんに関わりの深いお社ということで豊国廟の近くに持ってこられたものなのでしょう。御存じ太閤さんの幼名と伝えられるのは日吉丸。ですから後白河法皇が創建したというお社ですが、この地に移して豊臣スピリチュアル空間の一翼を担わせたものと考えられます。翌年の1898年には京都を挙げて太閤300年祭が行われました。
市街を見る
ここにかつてお昼のドンを鳴らした午砲の台座が移されてきています。
こま猿、やあ太閤さんが座ったはるとも。
ここから豊国廟のある阿弥陀ヶ峰は指呼の間です。指呼の間ですが誰も登ろうとは言いませんでした。
面白いのは、大きな常夜燈。堂々と大阪六遊郭の名が刻まれています。
新町と堀江は色々な意味で壊滅。北新地や南は盛り場としては今も栄えていますが、芸妓などは今もいるのでしょうか。松島は現役ですね(爆)。大きな遊郭に甲乙に分けたのですね。話は京都のことになってしまいますが、今の祇園には甲部はありますが、乙部は祇園東と名を変えています。甲乙とはどうも役所くさいとにらんだらヤッパリ、明治の初年にお上がそのような名称を付けたようです。
南のことを少し調べたら、芸妓中心の甲部と娼妓中心の乙部に分けられたといいますから、京都でも同様の区分があったのかも知れません。
だからかどうか分かりませんが祇園でも甲部の方に優越感というかそういうものがあるようで、かつて「四条より上にいったら一見さんでもあげてますえー」という言葉を甲部で聞いたことがあります。勿論言葉の上に「けしからぬことに」という意味が隠されています。アッ!聞いたのは路上であって、お座敷でではありません(笑)。
地蔵山墓地にはかつて京都府の書類などを戦災から守るための地下倉庫があったといます。師匠はその入り口があったのはココとにらんでおられるのですが、本日参加している土木の専門家からも水抜きの違いの指摘があり、まず間違いなかろうということ。師匠、後は夜中に掘るだけでっせ。三十三間堂の裏通り一帯は坂本龍馬など土佐にからむ志士たちの住んでいたところ。
三十三間堂南門
これはなんじゃ?という石造物が寺の門前にありました。
七条大橋を渡ります。土木の専門家に依れば、この古さなら川にいっぱい松杭をうってから構造物を建てるそうで、目立たぬ処にあるプレートも見つけてくれました。こういうのは自分一人ならば、絶対に見落としていますね。補修の跡なども専門家が見れば分かるようです。
橋を渡ってすぐに松明殿稲荷。何代目かの木食上人の寄進した手水があります。さらに柳原銀行の建物が残っているところ。
最後は輪形地蔵の車石。もうこの車石を見なければ一杯飲めぬしきたりとなっていますね。そのまま飲み会に突入です。斜めから見ても、やはり大文字は夏の終わりを強く感じさせますね。と思っていたら、その後の猛暑がすごかった。
三十三間堂の南門から入ったこともありませんし、出たこともなかったものですから、南門の存在すら知りませんでした。 何回か行っているのに。 記憶にないのでしょうか?ね。
昔の人は、この三十三間の間を矢を飛ばしたのでしょ。すごいことですね。 現在の事でしたか???
今回歩かれた高台の辺りは、かってウロウロしたことがありますが、檻に入った猿の所までは行かなかったのか、初めて目にします。 見てみたいですね。
変色している石積みは、東大路通の妙法院の辺りでしょうか、いつも気になっていました。 汚い色になっていたものですから。 何故か?が解決してよかったです。
大文字徘回は失礼しました。懸念された夕立も遠くへ去って、逝く夏の送り火をのんびりと堪能された事と思います。
それにしましても、昼間の五条坂辺りはやはり猛暑の雰囲気ですが、gunさんには駅名まで暑苦しくなりましたか。
馬町周辺は、大昔は何度か徘回した経験がありますが(理由は秘密です)、かつては静かな佇まいの町(学)並みでしたが、今はどうですか。
馬町や西陣の空襲は、当時は軍部が秘匿して公表しなかったとか。特に疎開した私は、西陣の空襲を戦後かなり経つまで知りませんでした。
渋谷街道のこの名称は、周中の私の同級生にこの苗字の親友が居て、亡くなって25年になります。私には、とても懐かしい呼び名に思えます。
豊国廟のお昼のドンは、いつの頃まで鳴らしていたのでしょう。私は、聞いた記憶がありません(聞こえなかったのかも・・・)。
最後は、やはり車石で締めくくられましたか。輪形地蔵の別名は猿寺でしたか。それにしましても、最後に大文字の写真が無いのが残念です。斜めの文字も見たかつた思いです。
私事ですが、体調の問題もあり暫くブログ関係の往来を中断したく思います。長い間、数多くの未知の世界へ有難うございました。
月例の徘徊には、気候や体調次第で、また参加させて戴きたく思っております。
三十三間堂の通し矢は、今は成人式の行事などで行われています。競技の形ではないので、江戸時代のように一日に何千本通したとかそういうことは内容です。
焦げている石積は妙法院だと思います。さすが、すでに気がついておられたのですね。小生は当日まで全く知りませんでしたし、過去に前を通っていたにしても何も考えなかったようです。
盗難防止か何か、なぜ猿が檻に入っているのかは謎です。夜な夜な石台から降りて町に出て悪さをするというような話があれば楽しいですね。
馬町周辺、既に徘徊しておられたのですね。小生は、長いこと京都もブラブラしているのに初めて行きました。まだまだ知らないところがたくさんありますね。自動車の往来も多いのですが、それでも昔の雰囲気がしっかりと残っている街ではないでしょうか。
大文字の写真は、余程近いところで撮らないとコンデジではしっかりとは写りません。蛍を写すのと同じぐらい難しいです。一眼レフで三脚に固定して望遠でならしっかりと写ると思いますが、最近はそういう根性が無くなりました(笑)。
1)始めと終わりに、旧村井銀行と柳原銀行の写真。昔の建物は雰囲気がありますね。こういうレトロな建物はくわしい案内人がいないと、イチゲンの観光客は見逃します。
2)馬町の黒い石垣から空襲を連想するとはさすがですね。大坂城の石垣が黒っぽいのは、空襲のせいだったのかと、はじめてわかりました。謎というより、石が古くなるとそうなるもんだと思い、考えたこともなかったというのが正確なところ。京都に空襲があったことも初耳でした。
3)遊郭の地名の入った常夜灯、味がありますね。この前で缶ビールでも飲みながら20分ほどは時間がつぶせそうです。飛田は入ってませんね。若い頃、1回行きましたけど・・(笑)
今日の記事のタイトルから、大文字の送り火をビアガーデンから撮った写真で終わりかなと、勝手に想像してしまいました。(笑)
また、今後もコナモンの写真、期待しています。
京都は空襲に遭わなかったとしか聞いていませんでしたので、あの妙法院?の石垣の焼け跡?には新鮮な驚きですね。大阪城の城壁の焼け跡については師匠もgunkanatagoさんの見解を尊重されていると捉えましたが。
東山聖天さんのお百度廻り石、石には千度廻りと書いてありましたぜ(^_・)。千回は廻らないと念力は伝わらないという考えなんでしょうか?千日回峰行といいますが、百日回峰行というのはあるのでしょうか?
檻に入った猿の姿を見て、船井神社で見た馬の絵馬を思い出しましたが、あの様な逸話は残っていないのでしょうか
豊国廟入口の大灯籠の大阪六遊郭の文字、私は最初左から読んで、京女の門前になんで阪大が?なんて楽しんでいました(^_・)
京都府書類の地下倉庫の入口、京都府に聞いてみたい気もしますが、聞いたら担当者は困るでしょうね。まあそれよりもこっちだ、いやあそこだ、等とワイワイやる方が楽しいのかもしれません。
三十三間堂南門前の石造物、あれは何でしょうね?
松明殿稲荷では木食上人も登場しましたね^o^
締めは輪形地蔵の車石。これぞ師匠ガイドの徘徊のフィナーレを飾るものでした。丁度1年前には待ち合わせ時間を気にしながら訪れたことでした。
こういった徘徊をしていると「歩く京都案内」なんて本はアホらしくて買う気も起こらず最近目もくれなくなりましたね。
東山五条から東福寺間は我が家の菩提寺(泉湧寺道)にわりかた近いので月一のお参りの帰りに大抵はうろうろするのですが、京都は奥が深!、知らないところが多すぎます。
新日吉神社の近くの学校は長女が通っていました。
まだ市電が東山通りだけ走っていまして、妙法院の石垣の前が停留所でした。その女坂に美味しいお蕎麦やさんがあったのですが今はどうかしら?馬町に行くのは河合寛治郎記念館か、凄く良く当たるといわれる易者に3回ばかり行きました。結果はどうだったか・・・。
小生も馬町の空襲なるものは全く知りませんでした。それよりも「馬町」の存在自体も知りませんでした。徘徊は奥が深いです。
飛田は、いわゆる赤線なので、昔からの由緒正しい遊郭の中には入らないのではないでしょうか。詳しくは知らないのですが(笑)。
東山聖天、お祈りするならばあのような所でするべきでしょうね。来年も輪形地蔵がフィナーレになるのでしょうか。あ、それから琵琶湖疏水分線に沿った徘徊計画を師匠が練ってくれています。
当日は大きならっきょうもありがとうございました。一生懸命に漬けられた大切なものなのに大放出していただき申し訳ありませんでした。来年は、一緒に歩いていただけるほど涼しかったらいいのにと思います。女坂の蕎麦屋、早速師匠に知らせましょう。