先だって、飛鳥川を栢森まで遡ったときに、関西大学飛鳥文化研究所というのが稲渕にありました。誰か研究者がここで飛鳥を研究しているというものではなく、単に研修・保養施設だと思われるのですが(しかも人がいる気配がない)、えらいたいそうな名前を付けたものです。しかしながら、考えてみれば、これは下の方の名前は何でも良い、「明日香に『関西大学』あり」ということを知らしめたかったのだなというところでしょう。
関西大学には多くの偉い先生方がおられました。今もおられるでしょうが、こちらがこのところ「論文」を読むような人生とスッカリおさらばしているので現在の状況は判りません。橿原考古学研究所の礎を築かれた末永雅雄先生、高松塚古墳を発掘された網干善教先生(この先生はご出身が明日香です。かつて飛鳥坐神社で朝の散歩をされておられるときにお会いしたことがあります。)、日本古代史の横田健一先生、支那学の雄である大場脩先生等々、史学・考古学に関しては「千里学派」の名を献呈してもよいほど、錚々たる先生方が集まっておられました。文化研究所を後にして飛鳥川に沿った古い道を歩むうちに、大昔のことどもをつらつらと思い出しました。
小輩が未だ学生だったころ、関西大工学部の一般教養科目の日本史、有坂隆道先生の講義が実におもしろいという友人の話を聞き、微積どころか中学校の数学も解けぬ身でありながら、工学部の大教室に何回か忍び込みました。有坂先生は江戸時代の洋学史の専門家でありますが、まあ工学部の般教ということで、講義は関大と縁が深く、しかも多くの学生にとっても江戸時代の洋学者の話よりも耳に入りやすい「明日香」の話が中心でありました。有坂先生曰く「関大の関大たるものは法文これなり、法文は丘の上にあり。余は毎度丘を下りて工学部に来たる。工学部の諸氏これを謝せよ。」と。
一度拝聴すると、もはや抜け出せない。有坂先生の授業には本物の工学部の生徒よりも熱心に通いました。我々の如き、理科・数学が高校の段階で全く出来なくなって、私立の文化系に進んだ人間、とりわけ京都の大学に通う者には、多かれ少なかれ「京都大学」に対する複雑な気持ちがあります。それは時として無意味な敵意になったり、また無条件の羨望になったりするのですが、まあ憧れと僻みが同居しているというか、そのような気持ちです。そんな気持ちが根底にある者に、「京都大学の歴史学が関大の歴史学に追いつくには5千年かかる。」等と大声で講義されるものですから、それだけで拍手喝采、欣喜雀躍、すっかりと擒になってしまうわけです。
やはり、洋学史の先生らしく高松塚の壁画の星宿図についての話が多かったのですが、往時多くの人が北鮮に阿る意もあってか(未だ多くのアホが北鮮を理想の国として吹聴していました)高句麗の古墳との共通性を主張、また何も判らぬくせに北鮮の学者なども来日して、「われわれが影響を与えた。」などとアホな自慢をしていましたが(高句麗は偉大な国だと思うが、今のチンケな国とは何の関係もない。今の北鮮は、かつて大学者が住んでいたマンションに泥棒が住んでいるようなもの、しかるに立命館などでは末川君などが北鮮に最大級の賛辞を献呈していました。)。有坂先生は、高松塚星宿図は中国から直接影響を受けたものであるとし、高句麗の古墳との無関係を指摘しておられました。往時、関大の先生方が中心となって編集された『飛鳥を考える』というシリーズ化された書籍は今も多くの示唆を与えてくれます。
その書物でも多くふれられているのですが、当時の関大の先生方は梅原某(これも有坂先生の言い方)が古代史にしゃしゃり出て来ているのを徹底的に批判されていました。某の法隆寺論、人麻呂の伝記等それなりにセンセーショナルで、多くの人がその虜になったことは確かです。小生も一度某の講演を聴きに行きましたが、怨霊を語るしぐさなど声と高く上げた手を震わせて芝居っ気たっぷりに話すものですから、聴衆は一種の催眠状態となり、後の質疑応答では、某を賛美する声が多く聞かれました。この時に同時に講演した鳥越憲三郎先生はさすがに大学者だけあってそういう催眠は効果無く、「某は今日私に会うなり私の著作『古事記は偽書か』を絶版にせよとぬかしよった。」と言っておられましたが。
法隆寺論などは夭折された高橋先生の「寺は仏を祀る所。」という言葉だけで「勝負あり!」なのですが、近年の研究でも法隆寺の中門の真ん中の柱の意味が、決して怨霊封じ込めのためのものではないことが判明してきています。それどころか聖徳太子の存在そのものも怪しくなってきている。本業の哲学に於ける某の功績については、小生などは語る知識を持ちませんが、古代学等に関しては、関大の先生方の議論の方が遙かに学問的で説得力があったように思います。まあ、某は九条の会(最初はみんなで大阪の九条に行って女郎買いをする会なのかなと思ったが)などで、例の大江某とつるんどるというだけで、その品性下劣なるを知ることはできます。そういえば、最近静かな矢沢永一関大名誉教授なども大江が大嫌いでしたね。よき伝統です。
小生なども関大の講義を受けていなければ、「梅原古代学」なるものにハマッタかもしれない。古田武彦のファンなんかは、もう理屈も何もなく古田説を喧伝しますが、同じ心理を梅原古代学に抱いたかも知れぬ。かつて奈良の居酒屋で隣に座ったオッサンなどは、もう某の熱烈なファンで、その著作の内容を蕩々と語り出す、反論してやろうかなと思いましたが、まあ言っている様子が小学生のような熱狂ぶりだったので黙って聞いていると、その晩の酒代は全部おごってくれました。小生も、そんなオッサンになっていたかも知れない。某が文化勲章とやらを受けたときに「この国は冷静か?」と考えることが出来たのは関大史学のおかげであります。
さて、残念ながら「憎まれっ子世にはばかる」の例え通り、有坂先生、某との長生き競争には負けてしまわれました。「有坂先生、あきまへんがな!」と言えば、「そやから京大は関大に追いつけないとゆうてるやろ。」と返されそうですね。某よ、早く逝かなければ有坂先生や関大の偉い先生方は遥か先に進んでしまうでー。
写真はポンポン山頂上。
関西大学には多くの偉い先生方がおられました。今もおられるでしょうが、こちらがこのところ「論文」を読むような人生とスッカリおさらばしているので現在の状況は判りません。橿原考古学研究所の礎を築かれた末永雅雄先生、高松塚古墳を発掘された網干善教先生(この先生はご出身が明日香です。かつて飛鳥坐神社で朝の散歩をされておられるときにお会いしたことがあります。)、日本古代史の横田健一先生、支那学の雄である大場脩先生等々、史学・考古学に関しては「千里学派」の名を献呈してもよいほど、錚々たる先生方が集まっておられました。文化研究所を後にして飛鳥川に沿った古い道を歩むうちに、大昔のことどもをつらつらと思い出しました。
小輩が未だ学生だったころ、関西大工学部の一般教養科目の日本史、有坂隆道先生の講義が実におもしろいという友人の話を聞き、微積どころか中学校の数学も解けぬ身でありながら、工学部の大教室に何回か忍び込みました。有坂先生は江戸時代の洋学史の専門家でありますが、まあ工学部の般教ということで、講義は関大と縁が深く、しかも多くの学生にとっても江戸時代の洋学者の話よりも耳に入りやすい「明日香」の話が中心でありました。有坂先生曰く「関大の関大たるものは法文これなり、法文は丘の上にあり。余は毎度丘を下りて工学部に来たる。工学部の諸氏これを謝せよ。」と。
一度拝聴すると、もはや抜け出せない。有坂先生の授業には本物の工学部の生徒よりも熱心に通いました。我々の如き、理科・数学が高校の段階で全く出来なくなって、私立の文化系に進んだ人間、とりわけ京都の大学に通う者には、多かれ少なかれ「京都大学」に対する複雑な気持ちがあります。それは時として無意味な敵意になったり、また無条件の羨望になったりするのですが、まあ憧れと僻みが同居しているというか、そのような気持ちです。そんな気持ちが根底にある者に、「京都大学の歴史学が関大の歴史学に追いつくには5千年かかる。」等と大声で講義されるものですから、それだけで拍手喝采、欣喜雀躍、すっかりと擒になってしまうわけです。
やはり、洋学史の先生らしく高松塚の壁画の星宿図についての話が多かったのですが、往時多くの人が北鮮に阿る意もあってか(未だ多くのアホが北鮮を理想の国として吹聴していました)高句麗の古墳との共通性を主張、また何も判らぬくせに北鮮の学者なども来日して、「われわれが影響を与えた。」などとアホな自慢をしていましたが(高句麗は偉大な国だと思うが、今のチンケな国とは何の関係もない。今の北鮮は、かつて大学者が住んでいたマンションに泥棒が住んでいるようなもの、しかるに立命館などでは末川君などが北鮮に最大級の賛辞を献呈していました。)。有坂先生は、高松塚星宿図は中国から直接影響を受けたものであるとし、高句麗の古墳との無関係を指摘しておられました。往時、関大の先生方が中心となって編集された『飛鳥を考える』というシリーズ化された書籍は今も多くの示唆を与えてくれます。
その書物でも多くふれられているのですが、当時の関大の先生方は梅原某(これも有坂先生の言い方)が古代史にしゃしゃり出て来ているのを徹底的に批判されていました。某の法隆寺論、人麻呂の伝記等それなりにセンセーショナルで、多くの人がその虜になったことは確かです。小生も一度某の講演を聴きに行きましたが、怨霊を語るしぐさなど声と高く上げた手を震わせて芝居っ気たっぷりに話すものですから、聴衆は一種の催眠状態となり、後の質疑応答では、某を賛美する声が多く聞かれました。この時に同時に講演した鳥越憲三郎先生はさすがに大学者だけあってそういう催眠は効果無く、「某は今日私に会うなり私の著作『古事記は偽書か』を絶版にせよとぬかしよった。」と言っておられましたが。
法隆寺論などは夭折された高橋先生の「寺は仏を祀る所。」という言葉だけで「勝負あり!」なのですが、近年の研究でも法隆寺の中門の真ん中の柱の意味が、決して怨霊封じ込めのためのものではないことが判明してきています。それどころか聖徳太子の存在そのものも怪しくなってきている。本業の哲学に於ける某の功績については、小生などは語る知識を持ちませんが、古代学等に関しては、関大の先生方の議論の方が遙かに学問的で説得力があったように思います。まあ、某は九条の会(最初はみんなで大阪の九条に行って女郎買いをする会なのかなと思ったが)などで、例の大江某とつるんどるというだけで、その品性下劣なるを知ることはできます。そういえば、最近静かな矢沢永一関大名誉教授なども大江が大嫌いでしたね。よき伝統です。
小生なども関大の講義を受けていなければ、「梅原古代学」なるものにハマッタかもしれない。古田武彦のファンなんかは、もう理屈も何もなく古田説を喧伝しますが、同じ心理を梅原古代学に抱いたかも知れぬ。かつて奈良の居酒屋で隣に座ったオッサンなどは、もう某の熱烈なファンで、その著作の内容を蕩々と語り出す、反論してやろうかなと思いましたが、まあ言っている様子が小学生のような熱狂ぶりだったので黙って聞いていると、その晩の酒代は全部おごってくれました。小生も、そんなオッサンになっていたかも知れない。某が文化勲章とやらを受けたときに「この国は冷静か?」と考えることが出来たのは関大史学のおかげであります。
さて、残念ながら「憎まれっ子世にはばかる」の例え通り、有坂先生、某との長生き競争には負けてしまわれました。「有坂先生、あきまへんがな!」と言えば、「そやから京大は関大に追いつけないとゆうてるやろ。」と返されそうですね。某よ、早く逝かなければ有坂先生や関大の偉い先生方は遥か先に進んでしまうでー。
写真はポンポン山頂上。
歴史書となれば、宮崎某の「「 まぼろしの邪馬台国 」」や古田某の「邪馬台国はなかった」は、その後どうなったのでしよう。一時は大ブームになり、私も付和雷同したものです。梅原某の作品群も、その様な流れから何冊か目を通しましたけど、私の如き歴史門外漢には真偽の区別などとうてい付きません。
講義を受けたり専門書で学んだ訳ではありませんので、何を読んでも成程とかそんなもんか・・・と合点してしまいますので、ある意味では怖ろしい(自分が)とも申せます。
「関西大学飛鳥文化研究所」はその前を通りましたが、そんなに歴史学に権威のある大学とは知らず、失礼したかも知れません。矢沢永一は評論集を読んだ記憶がありますが、大江嫌いですか。大江の小説は、私は好きな方でした。
関大の教授と言えば、いつか池田徘徊の際に知人が居ると言っていた、その彼は文学部の教授です。歴史とは無縁で、横道へ反れました。
けれども、これがドラマになると日清戦争のところで、原作にはない虚構がプラスされていました。NHKは日本陸軍が憎いのでしょう。流石に抗議が多かったのでしょうね、義和団事件では、そういう虚構は付けられていませんでした。
大江某は、矢沢先生が繰り返して説いておられるように品性が卑しいと思います。日本の文化勲章を拒否しましたが、ヤツは外国の幇間となって日本の悪口を喧伝することでノー何たら賞を得ました。ところが、日本人のお人好しさを利用して、海外に亡命することもなく、日本で金もうけ(講演ではいつも息子のCDの宣伝もする)をしています。
古田某は、「東日流外三郡誌」なる偽書を信じ込んで幾つかの論文を書き、これが偽書であることが99%明らかになっても、もう引くに引けなくなってしまって恥をかき続けていますが、熱心な信者は今も健在です。その生き方を見ていると殺人犯が自分の犯行を隠すために第2第3の殺人を犯すのとよく似ています。
このところは、季節がら「忠臣蔵」にうんざりしています。赤穂浪士なんかはただのゴロツキだという心ある人々の声はなかなか世間には通じません。池宮彰一郎なんかは吉良邸を要塞のように描いていましたね。
何時ぞや僕が梅原の本を買ったよと言ったときのgunkanatagoさまの反応の理由が分かりました(^_・)
まあ赤穂浪士はゴロツキなのか分かりませんが、それよりゴロツキをあそこまで英雄に仕立て上げた芸術家の方に軍配をあげたいですね。歴史小説の面白さは事実と事実の間にある空間をどう埋めるかが作家の主観であり、それがどう表現されているかを詠むのが読者の楽しみだと思っています。その時点で明らかな事実まで曲げて表現されるとこれは作家の妄想になってしまうのではないでしょうか。でも我々素人にはその判断が難しいだわ。
大江は何を言っているか私には分かりません。文化勲章を拒否し、ノーベル賞を受ける思想は理解に苦しみます。
一般論ですが、私は平和平和と叫んでいる人が戦争を誘発しているのではという仮説を持っております。
気骨と学問の良識
京都大学は公開講座には何度か行きましたが、普通の授業に忍び込むことはできませんでした。大教室ならばバレ無いでしょうが、「賢そうな連中の中に一人だけアホ顔をして座っていたらバレるのでは」等と、自分で勝手に萎縮して避けていました。
それでも、何か書籍を借りに行く友人についていった東洋文化研究所でしたか、そのアカデミックな雰囲気には圧倒されました。東大は何年か前に安田講堂や三四郎池の周りなどを散歩しましたが、この歳になって素直に「すごいなぁ」という言葉が言えるようになっていました。
赤穂のゴロツキに関しては、そのうちに実態をまとめて書いてみようと思っています。
東大や京大を卒業した人達もそれはそれなりに大変らしいですよ。例えば東大法学部を出て弁護士やってたら同窓会に出づらいとの話を聞いたことがあります。ある東大法学部出の人の話でありそれが一般的雰囲気なのかどうかは分かりませんが。
寧爲雞口無爲牛後;鶏口となるも牛後となること無かれ
京北観光ボランティアガイドに応募したらそこで一番頼りにされる人間になろう、鯖街道のことはあの人に聞けといわれる様になろう、などと目先の事で一つ一つ頑張っていたら、自然と世界が拡がっていくものだと思い、これを我がモチベーションと位置づけています。
ボランティアガイドの件、「なるほど」と思います。次回にアップしますが、昨日「桜井の駅」でボランティアガイドと絡みました。mfujino様の言われるガイドとの乖離はもの凄く大きかったです。桜井の駅ならば桜井の駅のことだけしか知らないという感じでした。それは以前に大山崎でも平城宮祉でも感じたことです。善意でされていることだから、こちらも出来るだけ丁寧に話を聴きますが説明の押し売りは、やはりよくないと思いました。それだけにいつも自分に関して満足ということをせずに努力されているmfujino様は希有な存在だと思います。