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本日は、阪急水無瀬駅から若山神社を経て、太閤道、高槻に下りたって酒を飲もうという趣向であります。まず最初は、若山神社とは逆の方向になるのですが、高浜の砲台跡を探しに行きます。砲台そのものの跡は現在は淀川河川敷のゴルフ場になってしまっていますが、どこかに碑があったはずだということで堤防に出ます。
トップの写真は、淀川の対岸「楠葉砲台」のあった辺りです。1868年の「鳥羽・伏見の戦い」において敗れた幕府軍は対岸の京街道を壊走、楠葉砲台は小浜藩が守っていました。こちら側の高浜砲台を守備していたのは藤堂藩、この時点で幕府を裏切り、楠葉砲台に向けて砲撃を開始します。幕府にとっては、なまじいな親藩・譜代よりも余程に重んじていた藩の裏切りですから、対岸の楠葉砲台はびっくりしたでしょうね。最初は意気揚々と京都を目指した幕府側ですが、一旦敗北するや淀藩に先ずは裏切られ、今またここで藤堂藩が裏切る。薩摩長州を中心とした朝廷側を寡兵と侮った酬いは大変大きなものでありました。
砲台跡の碑がどこにあるか判らないので、堤防を散歩されているお爺さんにうかがいました。最初は、かなり上流の方向を指して「あのあたり」と教えてくださったのですが、我々が300メートルほど北上した頃に、再び戻ってきて「思い出した!もっと下(しも)の方やわ。」と言って一緒に600メートルほど下ってくださいました。
その後、ゴルフ場の管理事務所にも問い合わせていただき、めでたく発見!お爺さんとは、その場で別れましたが、本日の散歩は我々が道を聞いたばかりにいつもの2倍以上になったのではないでしょうか。
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説明によると、砲台は周囲180メートルにも及ぶ広さであったそうで、対岸の楠葉砲台とともに、その機能をきちんと果たしていれば、敵軍はちょっとやそっとでは京・大坂間を往来できなかったでしょう。この堤防から、男山(石清水八幡宮)は、下のように見えております。
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国道171号線周辺は市街化されていますが、ちょっと入ると高浜の古い集落は残されています。最近建設されたマンション、どう考えても邪魔です。
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さて、碑を見つけてくれたお爺さんに感謝しながら、阪急水無瀬駅に戻り、今度は山の方に進みます。西国街道まで来ると有名な桜井の駅です。楠公父子訣別の場には多くの碑が建てられています。
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乃木大将揮毫
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東郷元帥揮毫
ここで、ボランティアガイドの方に地図と「青葉茂れる」の譜面をいただきました。ガイドのいきなりの登場にはびっくりしましたし、ここに来る者には必ず説明しなくてはならないという使命感のようなものには辟易とするところはありますが、まあ善意の塊の方々ですから有り難く礼を言って別れます。「青葉茂れる」を知っているかて?乃木さんの「水師営」も東郷さんの「日本海海戦」も歌ってあげようか?小生はその地図と譜面はポケットに入れていて、どこかに落としてしまいましたが、師匠ももらったので、この地図がわずか30分後には大いに役に立ちました。
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西国街道道標
若山神社に向かうには、JR東海道線の線路と名神高速道路を越さねばならぬ。2つともに目出度くクリヤしたのですが、寶城禅寺という寺の前で、「寺ちゅうのはホンマに途中で宗派を変えている、つまり宗旨替えをしたところが多いなあ」等と話ながら狭い道を進むと、例によって道に迷ってしまいました。
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寶城禅寺
若山神社の周辺には若山台というニュータウンが出来ています。同じようなニュータウンである桜井台に迷い込んでウロウロとしているのです。そのまま山にも入りましたが、どうもおかしいということで下りてきました。桜井台という住宅地があることを先ほどもらった地図で確認するまでに時間がだいぶとかかりました。
現在どこにいるかということは大体つかめたのですが、若山台までの道が未だ不明、たまたま回覧板を持って家から出てこられたお婆さんに尋ねました。最初から親切に道を教えてくださいましたが、こちらがかなり頼りなげに見えたのでしょう。結局は若山台の登り口まで約600メートルほどを同道して下さいました。最初のお爺さんといい、このお婆さんといい、誰かが「やつらをしっかりと導いてやれ」と遣わされた使いのような気がします。お婆さん、隣の家に回覧板を届けるだけなのに、たまたま道を聞かれて災難でしたね。師匠は最近の徘徊で、神主、坊主、牧師の順に親しく話しかけられるし、何か大きな意志が働いているとすれば、お爺さんお婆さんは高砂神社の尉と姥かなと申す処。
若山神社は山林を含めてですが、4万坪の広さのあるお宮さんです。もともとは牛頭天王を祀っていましたが、明治以後はスサノオノミコトが主神となりました。
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参道
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明和4年(1867)の灯籠
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拝殿
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東大寺の氏子、ン?と思われるかも知れません。寺は檀家ですから。この東大寺は地名で、この辺りは東大寺の荘園でした。このお宮さんからは男山は下のように見えます。水無瀬川を入れて、木津川、宇治川、桂川との4川合流地帯でもあります。
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若山神社からは椎の木林の中を一挙に尾根筋まで登ってしまいます。山崎の合戦の際に豊臣秀吉が進んだと言うことで「太閤道」の名が付いていますが、秀吉は麓の西国街道を進んだと思われます。こちらは西国街道の間道ですから、明智の奇襲隊を警戒する部隊が進みました。
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尾根筋でも眺望の開けるところはわずかですが、男山は下のように見えます。改めて奈良へとつながる南山城の広さも理解できます。
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若山山頂には三等三角点(315.5)、途中で「岩神神社」に向かう分岐がありました。10分だけ進んで、辿り着けなかったら戻ってこようと神社を目指しましたが、タイムアウトで次回の宿題となりました。
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若山三角点
尾根筋が下りにかかり、少し広い場所に出ると、そこが金竜寺跡です。後述する丁石から見てもかなりの名刹だったと思われます。今は有志の方が大量に杜若を植えています。僧侶の墓石も寂しげです。
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金竜寺への丁石は磐手橋にあるスタート地点を示すものを含めて全部で14あったようです。そのうちの3、4つは失われていますが、これは山道が参道から外れたところも通っている、つまりだれも歩かなくなった参道の部分もありますので、丁寧に探査すれば全て見つかるかも知れません。
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「ここまで来たら、ついでに安満宮山古墳も見とこう。」と市営墓地の中を1.5㎞ほど登り始めます。酒も飲んでいないのに第2回戦の感があります。墓場ではボチボチ職員が施錠を始めています。
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安満宮山古墳は3世紀半ばのもので、まさしく邪馬台国の時代の古墳です。三角縁神獣鏡や青龍三年銘の方格規矩四神鏡が出土しています。この鏡こそが魏志にいう卑弥呼に下賜された銅鏡100枚のうちの一枚であるように思われます。他に5~6世紀の群集墳もありますが、こちらの方はかなり破壊されているようです。
この宮山古墳から阪急高槻駅までの途中で、とっぷりと暮れてしまいました。趣深い磐手社神社や磐手の集落も通り過ぎるだけです。駅前で飲んだ和歌山(若山にかけて)の酒「羅生門」はなかなか美味でありました。本日は尉と姥に先ず感謝の献酒をいたしました。
トップの写真は、淀川の対岸「楠葉砲台」のあった辺りです。1868年の「鳥羽・伏見の戦い」において敗れた幕府軍は対岸の京街道を壊走、楠葉砲台は小浜藩が守っていました。こちら側の高浜砲台を守備していたのは藤堂藩、この時点で幕府を裏切り、楠葉砲台に向けて砲撃を開始します。幕府にとっては、なまじいな親藩・譜代よりも余程に重んじていた藩の裏切りですから、対岸の楠葉砲台はびっくりしたでしょうね。最初は意気揚々と京都を目指した幕府側ですが、一旦敗北するや淀藩に先ずは裏切られ、今またここで藤堂藩が裏切る。薩摩長州を中心とした朝廷側を寡兵と侮った酬いは大変大きなものでありました。
砲台跡の碑がどこにあるか判らないので、堤防を散歩されているお爺さんにうかがいました。最初は、かなり上流の方向を指して「あのあたり」と教えてくださったのですが、我々が300メートルほど北上した頃に、再び戻ってきて「思い出した!もっと下(しも)の方やわ。」と言って一緒に600メートルほど下ってくださいました。
その後、ゴルフ場の管理事務所にも問い合わせていただき、めでたく発見!お爺さんとは、その場で別れましたが、本日の散歩は我々が道を聞いたばかりにいつもの2倍以上になったのではないでしょうか。
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説明によると、砲台は周囲180メートルにも及ぶ広さであったそうで、対岸の楠葉砲台とともに、その機能をきちんと果たしていれば、敵軍はちょっとやそっとでは京・大坂間を往来できなかったでしょう。この堤防から、男山(石清水八幡宮)は、下のように見えております。
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国道171号線周辺は市街化されていますが、ちょっと入ると高浜の古い集落は残されています。最近建設されたマンション、どう考えても邪魔です。
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さて、碑を見つけてくれたお爺さんに感謝しながら、阪急水無瀬駅に戻り、今度は山の方に進みます。西国街道まで来ると有名な桜井の駅です。楠公父子訣別の場には多くの碑が建てられています。
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乃木大将揮毫
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東郷元帥揮毫
ここで、ボランティアガイドの方に地図と「青葉茂れる」の譜面をいただきました。ガイドのいきなりの登場にはびっくりしましたし、ここに来る者には必ず説明しなくてはならないという使命感のようなものには辟易とするところはありますが、まあ善意の塊の方々ですから有り難く礼を言って別れます。「青葉茂れる」を知っているかて?乃木さんの「水師営」も東郷さんの「日本海海戦」も歌ってあげようか?小生はその地図と譜面はポケットに入れていて、どこかに落としてしまいましたが、師匠ももらったので、この地図がわずか30分後には大いに役に立ちました。
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西国街道道標
若山神社に向かうには、JR東海道線の線路と名神高速道路を越さねばならぬ。2つともに目出度くクリヤしたのですが、寶城禅寺という寺の前で、「寺ちゅうのはホンマに途中で宗派を変えている、つまり宗旨替えをしたところが多いなあ」等と話ながら狭い道を進むと、例によって道に迷ってしまいました。
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寶城禅寺
若山神社の周辺には若山台というニュータウンが出来ています。同じようなニュータウンである桜井台に迷い込んでウロウロとしているのです。そのまま山にも入りましたが、どうもおかしいということで下りてきました。桜井台という住宅地があることを先ほどもらった地図で確認するまでに時間がだいぶとかかりました。
現在どこにいるかということは大体つかめたのですが、若山台までの道が未だ不明、たまたま回覧板を持って家から出てこられたお婆さんに尋ねました。最初から親切に道を教えてくださいましたが、こちらがかなり頼りなげに見えたのでしょう。結局は若山台の登り口まで約600メートルほどを同道して下さいました。最初のお爺さんといい、このお婆さんといい、誰かが「やつらをしっかりと導いてやれ」と遣わされた使いのような気がします。お婆さん、隣の家に回覧板を届けるだけなのに、たまたま道を聞かれて災難でしたね。師匠は最近の徘徊で、神主、坊主、牧師の順に親しく話しかけられるし、何か大きな意志が働いているとすれば、お爺さんお婆さんは高砂神社の尉と姥かなと申す処。
若山神社は山林を含めてですが、4万坪の広さのあるお宮さんです。もともとは牛頭天王を祀っていましたが、明治以後はスサノオノミコトが主神となりました。
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参道
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明和4年(1867)の灯籠
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拝殿
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東大寺の氏子、ン?と思われるかも知れません。寺は檀家ですから。この東大寺は地名で、この辺りは東大寺の荘園でした。このお宮さんからは男山は下のように見えます。水無瀬川を入れて、木津川、宇治川、桂川との4川合流地帯でもあります。
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若山神社からは椎の木林の中を一挙に尾根筋まで登ってしまいます。山崎の合戦の際に豊臣秀吉が進んだと言うことで「太閤道」の名が付いていますが、秀吉は麓の西国街道を進んだと思われます。こちらは西国街道の間道ですから、明智の奇襲隊を警戒する部隊が進みました。
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尾根筋でも眺望の開けるところはわずかですが、男山は下のように見えます。改めて奈良へとつながる南山城の広さも理解できます。
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若山山頂には三等三角点(315.5)、途中で「岩神神社」に向かう分岐がありました。10分だけ進んで、辿り着けなかったら戻ってこようと神社を目指しましたが、タイムアウトで次回の宿題となりました。
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若山三角点
尾根筋が下りにかかり、少し広い場所に出ると、そこが金竜寺跡です。後述する丁石から見てもかなりの名刹だったと思われます。今は有志の方が大量に杜若を植えています。僧侶の墓石も寂しげです。
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金竜寺への丁石は磐手橋にあるスタート地点を示すものを含めて全部で14あったようです。そのうちの3、4つは失われていますが、これは山道が参道から外れたところも通っている、つまりだれも歩かなくなった参道の部分もありますので、丁寧に探査すれば全て見つかるかも知れません。
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「ここまで来たら、ついでに安満宮山古墳も見とこう。」と市営墓地の中を1.5㎞ほど登り始めます。酒も飲んでいないのに第2回戦の感があります。墓場ではボチボチ職員が施錠を始めています。
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安満宮山古墳は3世紀半ばのもので、まさしく邪馬台国の時代の古墳です。三角縁神獣鏡や青龍三年銘の方格規矩四神鏡が出土しています。この鏡こそが魏志にいう卑弥呼に下賜された銅鏡100枚のうちの一枚であるように思われます。他に5~6世紀の群集墳もありますが、こちらの方はかなり破壊されているようです。
この宮山古墳から阪急高槻駅までの途中で、とっぷりと暮れてしまいました。趣深い磐手社神社や磐手の集落も通り過ぎるだけです。駅前で飲んだ和歌山(若山にかけて)の酒「羅生門」はなかなか美味でありました。本日は尉と姥に先ず感謝の献酒をいたしました。
それと、高槻(摂津富田)の某社へは、学生時代にアルバイトで常勤的に行っていました。氷室と言う地域から、さる女子大生もバイトに来ていて、中々の麗人(氷室だから冷人?)ではありましたが・・・。それにしても、高浜との地名があるのは、かつてのあの辺りは海浜だったのでしょうか?
男山八幡宮は、麓を京阪で日々通過しており、写真の如き遠方から眺めた経験はありません。かなりの広大な遠望で、認識を新にしました。水無瀬川はほとんど知りませんが、他の3川の合流地点は、毎日通過(朝の記憶しかありませんけど)した懐かしい地点です。
それにしても、徘徊堂さんが「桜井の別れ」を暗唱されるとは、お若いのに大したものです。やはり教養の誉れ高い証でしょうか。ただ、子供の正行は既に20歳を過ぎていたとか、この別れは捏造だとか喧しい諸説も紛々(糞々?)としているそうですが・・・。私には、この歌の国民学校時代の強烈な思い出が忘れられません。「水師営」とか「日本海海戦」を譜面無しで歌える日本人は、今やほとんど存在しないのではないですか。
魏志倭人伝にある卑弥呼の鏡は、方々の出土をそれと認定すると100枚を遙かに超える、と聞いたことがあります。何処までが本当なのでしょう。それもそうとして、親切な大阪の爺さん婆さんに遭遇され、夜の酒は格別だった様で何よりでした。
この記事を読ませて頂き、お、徳島の脇町を忘れてた、何であそこが戦略上重要な地やったんやろう、正月休みを利用して走ってみようかなという気にさせて貰いました。こういったことは地図を読む楽しさでもありますが、その地に足を運ばないと分からないこともありますしね。
水無瀬の辺りは水が美味いらしいですね。サントリーはウイスキー工場をつくりましたが、酒蔵はどうなのでしょう?
楠木正成については、この徘徊の途中で林家辰三郎説として楠木正成=垂水荘の雑掌説がかなり有力であるらしいと師匠から教わりました。現在のこのあたりの歴史は太平記と梅松論で組み立てられていますから、今後も新しいことがどんどんと出てくるでしょうね。林屋説は別に新しいものではありませんが。
水無瀬には酒蔵はどうもないようです。若山台あたりまで来ると北にサントリーの工場が大きく見えてきて、このまま試飲に行こうかなという誘惑もおこってきます。
宇津城の時に高橋さんに「天王山の山崎城を見に行って下さい」といわれましたが、前に登ったときには、ただ「あるなあ」程度でしたので、今一度行かなくてはと思っておりますが、いかがですか?
サントリーの山荘美術館やその付近、また高槻は昔、亀岡から阪急バスが通っていた時代に何度も行きましたが、水無瀬駅は一度も降りていなくて全く未知の場所です。太閤道は亀岡の光秀戦略に関係しているとすれば、私も少しは勉強しなければなりませぬ。
名神からも新幹線からも、男山や楠葉団地は思いのほか近くに見えますね。山手の名神のフエンスの向うに若山台とか櫻井台という団地があるとは思ってもいませんでした。石清水八幡宮は姑が健在の時、新年には毎年お供でお参りしました。参道の走井餅はいいのですがすずめの丸焼きを見るのが苦手でね。お酒のアテになるのかしら?いつも横道でご免なさい。
石清水八幡宮に毎年来ておられたとしたら、何処かでお会いしていたかも知れませんね。小生も何やかんやと言いながら毎年行っています。雀の丸焼きは悪趣味ですね。神さんも怒っているだろうと思います。食べた友人の話では小骨だらけでうまくないということです。
昔は楠葉側からは「梶原山」がランドマークでした。今は名神や新幹線からは楠葉の高層マンションがランドマークですね。