花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

源満仲について②

2010年08月19日 | 茶話
 源満仲(みなもとのみつなか)、多田のまんぢゅうと呼ばれるこの武将に関しては、幾つかの武勇伝が伝承されています。実際の満仲は、各地の国司を歴任した中流官僚ですが、摂津守となった関係で、肥沃にしてしかも都にも近い多田の地を開発、その領主に収まりました。その多田の地、かつては大きな湖で、その湖から細い滝が流れ落ちていて、下の岩にあたって音が響く様子が鼓(つづみ)の音のようだということで、鼓滝(つづみがたき)と呼ばれていました。今現在の能勢電鉄皷滝駅付近ということになります。
 たしかにこの辺りは多田盆地を流れてきた猪名川がぐっと狭まっているところで、草創期の能勢電車の心細い鉄橋が架かっていました。とうとう無くなってしまいましたが、山陰本線の余部の鉄橋、こやつの小さなのを想像してもらえば丁度そんな感じです。この滝を開削して、湖の水を抜き取ったところ、もともと湖の底であったために肥沃な多田盆地が姿を現したということになります。大きなダムを破壊して、ダム湖の底に沈むかつての村や田畑が再び姿を現すという感じがイメージとしては近いのではないかと思われます。実際は、猪名川の氾濫源をどんどんと切り開いて田畑にしていったのでしょうが、この開発の効は満仲に帰せられています。

          
          多田神社境内文化年間の石灯籠

          
          かつては寺であった名残

 摂津国一宮たる住吉神社より、満仲が矢を放ったところその矢はこの多田の地まで飛び、湖に棲む竜に命中しました。その矢を尋ね求めたので鼓滝付近には矢問の字名も残っています。その後、多田盆地の開削により、湖に残っていた他の竜も全て流されていったという言い伝えがあり、これらの竜はそれぞれ小戸神社境内の白竜社、その近辺の天王宮(現地の人は「てんのみや」と発音)などに祀られたということです。

          
          小戸神社白竜社(近年祭神と名称が変わった。理由不明)

 これだけですと、今日的な見解かも知れませんが、満仲は機嫌良く湖で暮らしていた竜たちに対する一方的な加害者になってしまいます。また、いずれにしても荒唐無稽の感は免れぬにしても、矢が住吉から多田に飛ぶということに比べたらまだしも合理的ということでしょうか、住吉神社から見て多田の地に運気が立ち上っていたために、この地に館を建てることになったという異説もあります。
 また、竜との対決では、湖に住む女神の依頼で女神の館を荒らすオロチを退治することとなり、その際に女神より額に角の生えた竜馬を授かり、この馬に乗って戦ったということになっています。今この竜馬の骨といわれるものが、宝塚の普明寺という寺に残されているということです。宝塚では、この満仲のオロチ退治が、その地域(宝塚市波豆)の話として伝承されています。宝塚も同様でしょうが多田では満仲のオロチ退治の舞台は多田であって欲しい、今日竜馬の骨が多田院にではなく、宝塚にある理由を「満仲の子で僧になった頼平が普明寺の住職になったため」と説明しています。また、前回申し述べました通俗軍記「多田五代記」あたりでは、この波豆辺りまで多田の一部としています。
 干ばつで苦しむ村人を救いたいと考えた頼平が、父の墓参に多田を訪れたときに、竜馬を埋めた駒塚が二つに割れ、竜馬の骨が出現し、その際に雨乞いの方法も教示した。頼平はこの竜馬の骨を持ち帰り、村を流れる川の淵に入れて祈ったところ雨が降り出したという話です。また、ご丁寧にも竜馬の下あごが無くなっていることについても、やはり干ばつに苦しむ箕面の人たちに竜馬の骨を貸し出したところ、箕面の大滝にこの骨を沈めて祈雨、その際扱いが雑であったために下あごが外れてしまったと説明しています(箕面の人の言い分は竜馬の骨が滝壺の岩をくわえ込んで放さなくなったので、無理に引きはがすと下あごがはずれてしまったということになっています)。
 多田院HPでは新田開拓時に九匹の竜を射殺とあります。何が正しいとか間違いとかは、言えぬ事ですが、その折々の状況で話が変わっていく様を知ることが出来ます。また同HPの「戸隠山に鬼神住みて牛馬六畜を殺生すとて勅命を受けて之を退治す、鬼人の首を携へ帰って叡覧に供し其功により正四位下を賜る。」という記事もあり、これらについてはやはり多田五代記が典拠となっているようです(最近、近藤喜博著「日本の鬼」講談社学術文庫を読んでおりますと「太平記」の中にもその記述があるそうです)。機会が有れば、源頼光についても触れたいと思いますが、この頼光については頼光勲功図会なる軍記が残されており、多田院にはこういう類の書物が多く有るようです。先代か先々代の宮司さんが「頼光勲功記」と「多田五代記」を復刻出版されていますが、これを神社に伝わる「古文書」とするのは難しいと思います。けれども「多田五代記」の方は多田兵部の家に秘蔵されていた等とも言っていますから、偽書として悪名高き「東日流外三郡誌」や「武功夜話」の如く、いかにも古文書であるということを目指したのかも知れません。つまり偽書のニオイも漂わせています。ただ、明治44年に出版された際に編者自身が多田兵部の家に秘されていたというのは「仮託の言ならん」と明快に断言しています。「東日流外三郡誌」や「武功夜話」にすっかり騙されている古代史家や多くの著名な作家は発行者の爪の垢を煎じて飲むべきでしょう。
 頼光勲功図会は「前太平記」がネタ本であることはしっかりとした論文も出ています。図会物で源氏の武将を取り扱うものの多くはそうであるようです。多田五代記もおそらくと思われますが、今ようやく前々太平記を寝っ転がって読んでいる状態で、前太平記はどこにあるのかなというところですので、しばらく断定はひかえたいと思います。


4 コメント

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遠き真実。 (道草)
2010-08-20 05:23:46
昔は「真説○○」と冠した読み物がよく出版されていましたが、わざわざ断わる点が却って怪しそうでした。また「△△の秘密」などと、如何にも歴年の謎を暴いた如き読み物もありました。
私の記憶では、その最たるものは高木某の「ジンギスカンの秘密」ではなかったでしょうか。私の高校時代でしたか、相当なベストセラーになりました。義経が蒙古へ渡りジンギスカンになった、との説(?)でした。それが本当なら、朝青龍は義経の子孫・・・?
いずれにしましても、わずか(地球の歴史からすれば)500年1000年前が不明とは、人間(我が先祖の輩達)はナニをしていたのか、と慨歎せざるを得ません。史実を残すなどとの意識は、庶民には皆無だったのでしょうか。
残されているのは、権力者の捏造による偽史ばかり多いのは、庶民の子孫として恥ずかしい・・・と言えば言い過ぎになりますか。
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偽書 (gunkanatago)
2010-08-20 13:19:13
 道草様、コメントをありがとうございます。歴史には純粋に物語として楽しんでも良い側面もあると思います。伝説はそれ自体が価値があると思いますし、人々が景仰するところの人物を敢えて剥き出しにして人々を嗤うのは悪趣味だと思います。
 けれども、これがあたかも真実だのような顔をして意図的に人を騙そうとする輩が企む「偽書」の類はやはり許されないものだと思います。高木彬光の「ジンギスカンの秘密」等は小説としては面白いものだと思います。武功夜話や東日流外三郡誌は明らかに「金儲け」を目的として作られた偽書で、世の人々を騙してやろうという悪意も感じられます。
 以前、旧石器の捏造で藤本某を「神の手」等と呼んで信じきっていた考古学の現状(勿論当時でも大いに疑義を表明していた方もおられました)を知り、「この程度のものか?」と思ったことがありましたが、歴史学や歴史小説の方でも「えっ、何で騙されるの?」と思います。今、韓国の時代物が流行っているようですが、あれなども1%の真実も伝えていません。けれど多くの人は史実ととるのでしょうね。
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物語 (mfujino)
2010-08-22 01:16:08
gunkanatagoさま、 この伝説面白いですね。亀岡の「蹴裂の伝説」や当地にも残る国造りの伝説を彷彿とさせてくれますね。単に武術に優れるだけの人の伝説と民を豊かにしてくれる人との伝説の差でしょうか?これは時代経過とも関係あるでしょうけれど。

そこに登場する竜や女神、その格闘など楽しい話題を提供してくれそうですね。伝説って史実とは違う場面もありそうですが、そこから得る情報って大切なのではないのかしらと思っています。

太平記の時代は好きでないのですが、というよりもそう言う先入観で来ました。しかし最近そういう時代に一人一人がどう生きたかをどう表現されているか、という観点から見ると興味を持ち始めています。物語=歴史ではなかろうかと。

何から読み始めたらいいのかなどご教授下さい。
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似ていますね (gunkanatago)
2010-08-23 13:58:14
 mfujino様、コメントをありがとうございます。改めて指摘していただくと、多田盆地、亀岡盆地、山国盆地と開削の起源が似ているのはすごいですね。川が盆地を抜け出て再び隘路に入っていくところには「誰かがこの隘路を掘削して広い田畑を創りだしてくれたのだ」というような気持ちをみんなが持つのかも知れません。となると京北の八津良神社は多田神社と同じような位置にあるように思えます。
 歴史はやはり物語でないと面白くないですよね。ゴテゴテとした修辞や意味不明の定義付け、昔はこういうものが格好いいと思ったものですし、史学史などで勉強したベルンハイムなどは物語的歴史を最も低位なものとして述べていましたから、史的唯物論に組することのできぬ立場として、これに抵抗して反唯物論で通していましたが、今はどちらもくだらないと思うようになりました。
 京北や美山の伝説・街道に興味を持ち、脈々と続いてきた北桑の人々の生活を思うようになれたのはmfujino様のご教示があればこそです。こちらこそ、宜しくお願い申し上げます。
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