大阪市の西区の中心地から木津川を越えれば、麗しの松島遊郭。本日は、西長堀周辺の徘徊でありますが、北を向いていると左の横髪を引かれ、東に向かえば本当に後ろ髪を引かれます。何か橋の向こうから遣り手婆さん達の「にぃちゃーん」という大合唱が聞こえてくる感じ。
まあ、そういうフラチなことを真っ昼間から考えているのは小生ぐらいのもので、ここは何といっても大阪市の中央図書館や公文書館のあるところ、文化の町なのであります。図書館の壁が遣り手婆さんビームを見事に遮断してくれます。
先ずは中央図書館の横にある「木村蒹葭堂邸跡の碑」、18世紀の大阪を語る上で絶対に外せない人物です。同時期の文化人の伝記などを調べていると必ず出てくる。あまりに偉大すぎて、小生など未だにこの人物御本人のことについては勉強できずにいます。この屋敷跡が天下の中央図書館になっているとは大阪市もやるねえという感じです。蒹葭堂も満足でしょう。毎度毎度、ひつこいようですが、この中央図書館も土曜・日曜しっかりと開館しています。
図書館を裏手に廻れば土佐公園、その北に土佐稲荷神社があります。この辺り一帯は土佐藩の蔵屋敷が有ったところ、当時は最も水運に便利なところであったのでしょう。
土佐公園
土佐稲荷神社は蔵屋敷の鎮守さんが起源、幕府瓦解の後。蔵屋敷が岩崎弥太郎の所有になった関係で、「三菱」とは関係が深く、紋所にも三菱が入っていますし、トップの写真の玉垣は三菱商事や地所、麒麟麦酒などグループ各社によって寄贈されました。
人目を引く大灯籠の揮毫は加藤高明、護憲三派内閣の首班として普通選挙制や治安維持法(今やこの法律ほどその復活が待たれる法はない)の制定を行った人ですが、岩崎弥太郎の娘婿です。
日本の真の英雄を貶めて中国や朝鮮に媚びんとするNHKの陰謀によって、岩崎弥太郎のイメージは随分と悪くなりましたが、あんなに汚いオッサンではありません。会ったことはないけれど(笑)。今、マスコミは三流の左翼文化人の視点でモノを作っている感じがします。口だけで、卑怯で、金に汚くて…。本年もまた太閤さんのことをメチャメチャ貶めているそうですね。
神気浄く、すがすがしい感じのするお宮さんです。勿論、鳩たちもここかしこで羽を伸ばしています。堺事件に関与した土佐藩士たちが誰が切腹するかのくじ引きを行ったお宮さんでもあるのですが、本日はそういう悲愴な雰囲気は感じ取れません。これ、薩摩藩だったら「のらりくらり」と追及をかわして藩士たちを守ったでしょうね。
狛きつね
境内には其角の句碑や謎の円形歌碑の他、岩崎弥太郎邸跡の碑などもあります。
其角句碑(明星や桜さだめぬ山かつら)
謎の歌碑(師匠、出番でっせー)
岩崎弥太郎邸跡碑
この他、境内には何であるかが分からぬウサギや寛政年間の手水石などが無造作に置かれていました。
おぬしは何者ぞ
土佐稲荷神社の東隣の集合住宅群が土佐藩蔵屋敷跡、その集合住宅の中では西長堀アパートが最も有名です。かつて司馬遼太郎が、このアパートに住み、ここで『龍馬が行く』を書いたということは良く知られています。蔵屋敷跡だから感応したのかな。薩摩藩蔵屋敷を見下ろしていたら「吉之助が行く」だったのかな?いやいや「翔ぶが如く」で、西郷どんのことは書いているか。
西長堀アパート(手前の低い方)
鰹座跡の高札がある公園
道路を渡って、西区の区役所前に立派な道標、残念ながら摩耗が激しく、良く読み取れません。近くには細野ビルヂィング。昭和11年の建築です。
細野ビルヂィング
鰹座橋を東に行き、白髪橋の所で南に下ると和光寺、今や鉄の要塞です。境内のあみだ池は難波の堀江の名残、物部守屋によって阿弥陀仏が棄てられ、また出現した後に、その仏さんは信濃の善光寺の本尊となったのだという伝承があるところです。ン?百済から伝来したのは阿弥陀像だったのか?本当に善光寺の阿弥陀さんは6世紀まで遡れるのかな。罰当たりなことを考えています。
けど今は、それよりも「あみだ池大黒」の粟おこしです。久しぶりやなぁ粟おこし、バリバリと食わんとあかんと思っていたら残念ながら本日は休業(泣)。あれを茶に浸して食うようになったら老人です(爆)。
堀江で思い出しましたが、この辺りには花街もあったはず、堀江六人斬り等という怖ろしい事件でも知られていますが、どこら辺なのかさっぱりと分かりません。大石順教尼の碑ぐらい建っていても良いのにと思いますが、土地では思い出したくないのかも知れません。堀江芸者も新町芸者も全滅?絶滅危惧種に保護の手をさしのべなかった政府に怒りを。お江戸の深川芸者もほぼ絶滅とのことです。
和光寺
あみだ池大黒
白髪橋には大阪木材市売場跡の碑、土佐の木材が市に出ました。長堀にはたくさんの木材が浮かべられていたことでしょう。その長堀、今は埋め立てられていますが、新なにわ筋までは川跡が緑地帯として残っています。そこから四ツ橋までは駐車場ですから、川の復活は可能です。大阪市の観光を考えるとき、阪神高速の地下化と長堀・西横堀川の復活は必須。「江戸の深川 難波の堀江 木場の芸子の 唄は消え」(羅休)。
四ツ橋まで長堀通を歩きます。四ツ橋には小西来山の句碑。文化の町はまことに結構なのですが、たこ焼き屋が全くありません。
涼しさに四ツ橋を四つ渡りけり
本日は暑い、四ツ橋を復活してくれーと思いつつ東に行くと。クリスタ長堀の排気口が川跡にずどーん。
御堂筋まで来たときに、キタの書店に本が届いているのを思い出しましたから、長堀の徘徊はおしまい。とりーかーじ、よーそろー。ここからは神風連です。先ずは難波神社。
続いて、座摩(いかすり)神社。御祭神が今一分かりにくいのですが、様々な造化の作用が神格化されている感じです。7月22日の夏祭りのころからサギ草が咲くそうです。
サギ草
さらに、この度めでたく船渡御の神事が復活することになった御霊神社(7月15日やでー)、文楽座の跡でもあります。いずれの神社も、丁寧に見れば色々なものがあります。以前に一部ご報告していますね。
近くに「伏見呉服町の碑」と「松瀬青々生誕地の碑」、目指すキタの書店はもうすぐです。これもまた埋めてしまった西横堀川には、この辺りに「呉服橋」が架かっていたということです。松瀬青々は俳人、ホトトギスの編集にも携わった人物ですが、既に平生の世界では完全に埋もれてしまっています。
青々の句の一つ、「握りゐて女にもらう蛍かな」、おー、高雄で経験があるぞい。昭和12年に死んだオッサンと自分が同じことをしている。女性の手のひらの中で光るホタル、暗闇の中でその顔も青白く照らす、今や懐かしい思い出であります。
伏見呉服町の碑
さて、ついに梅田まで来てしまいました。既に夕刻ですが、キリンケラーヤマトにもおおえすにも空席があります。キリンケラーヤマトが入っているビルは近々建て直すとのこと。なじんだ地下1階の方は既に閉店していました。ウン、何か全般的に、ちょっと不景気なんと違う?おおえすの横にはエビスビールの専門店ができていました。ここも空席が目立ちます。というかビールを利用したカクテルが目玉のようですが、悪酔いしそうです。キリン対サッポロというところですが、ここはキリンに軍配を上げましょう。
まあ、そういうフラチなことを真っ昼間から考えているのは小生ぐらいのもので、ここは何といっても大阪市の中央図書館や公文書館のあるところ、文化の町なのであります。図書館の壁が遣り手婆さんビームを見事に遮断してくれます。
先ずは中央図書館の横にある「木村蒹葭堂邸跡の碑」、18世紀の大阪を語る上で絶対に外せない人物です。同時期の文化人の伝記などを調べていると必ず出てくる。あまりに偉大すぎて、小生など未だにこの人物御本人のことについては勉強できずにいます。この屋敷跡が天下の中央図書館になっているとは大阪市もやるねえという感じです。蒹葭堂も満足でしょう。毎度毎度、ひつこいようですが、この中央図書館も土曜・日曜しっかりと開館しています。
図書館を裏手に廻れば土佐公園、その北に土佐稲荷神社があります。この辺り一帯は土佐藩の蔵屋敷が有ったところ、当時は最も水運に便利なところであったのでしょう。
土佐公園
土佐稲荷神社は蔵屋敷の鎮守さんが起源、幕府瓦解の後。蔵屋敷が岩崎弥太郎の所有になった関係で、「三菱」とは関係が深く、紋所にも三菱が入っていますし、トップの写真の玉垣は三菱商事や地所、麒麟麦酒などグループ各社によって寄贈されました。
人目を引く大灯籠の揮毫は加藤高明、護憲三派内閣の首班として普通選挙制や治安維持法(今やこの法律ほどその復活が待たれる法はない)の制定を行った人ですが、岩崎弥太郎の娘婿です。
日本の真の英雄を貶めて中国や朝鮮に媚びんとするNHKの陰謀によって、岩崎弥太郎のイメージは随分と悪くなりましたが、あんなに汚いオッサンではありません。会ったことはないけれど(笑)。今、マスコミは三流の左翼文化人の視点でモノを作っている感じがします。口だけで、卑怯で、金に汚くて…。本年もまた太閤さんのことをメチャメチャ貶めているそうですね。
神気浄く、すがすがしい感じのするお宮さんです。勿論、鳩たちもここかしこで羽を伸ばしています。堺事件に関与した土佐藩士たちが誰が切腹するかのくじ引きを行ったお宮さんでもあるのですが、本日はそういう悲愴な雰囲気は感じ取れません。これ、薩摩藩だったら「のらりくらり」と追及をかわして藩士たちを守ったでしょうね。
狛きつね
境内には其角の句碑や謎の円形歌碑の他、岩崎弥太郎邸跡の碑などもあります。
其角句碑(明星や桜さだめぬ山かつら)
謎の歌碑(師匠、出番でっせー)
岩崎弥太郎邸跡碑
この他、境内には何であるかが分からぬウサギや寛政年間の手水石などが無造作に置かれていました。
おぬしは何者ぞ
土佐稲荷神社の東隣の集合住宅群が土佐藩蔵屋敷跡、その集合住宅の中では西長堀アパートが最も有名です。かつて司馬遼太郎が、このアパートに住み、ここで『龍馬が行く』を書いたということは良く知られています。蔵屋敷跡だから感応したのかな。薩摩藩蔵屋敷を見下ろしていたら「吉之助が行く」だったのかな?いやいや「翔ぶが如く」で、西郷どんのことは書いているか。
西長堀アパート(手前の低い方)
鰹座跡の高札がある公園
道路を渡って、西区の区役所前に立派な道標、残念ながら摩耗が激しく、良く読み取れません。近くには細野ビルヂィング。昭和11年の建築です。
細野ビルヂィング
鰹座橋を東に行き、白髪橋の所で南に下ると和光寺、今や鉄の要塞です。境内のあみだ池は難波の堀江の名残、物部守屋によって阿弥陀仏が棄てられ、また出現した後に、その仏さんは信濃の善光寺の本尊となったのだという伝承があるところです。ン?百済から伝来したのは阿弥陀像だったのか?本当に善光寺の阿弥陀さんは6世紀まで遡れるのかな。罰当たりなことを考えています。
けど今は、それよりも「あみだ池大黒」の粟おこしです。久しぶりやなぁ粟おこし、バリバリと食わんとあかんと思っていたら残念ながら本日は休業(泣)。あれを茶に浸して食うようになったら老人です(爆)。
堀江で思い出しましたが、この辺りには花街もあったはず、堀江六人斬り等という怖ろしい事件でも知られていますが、どこら辺なのかさっぱりと分かりません。大石順教尼の碑ぐらい建っていても良いのにと思いますが、土地では思い出したくないのかも知れません。堀江芸者も新町芸者も全滅?絶滅危惧種に保護の手をさしのべなかった政府に怒りを。お江戸の深川芸者もほぼ絶滅とのことです。
和光寺
あみだ池大黒
白髪橋には大阪木材市売場跡の碑、土佐の木材が市に出ました。長堀にはたくさんの木材が浮かべられていたことでしょう。その長堀、今は埋め立てられていますが、新なにわ筋までは川跡が緑地帯として残っています。そこから四ツ橋までは駐車場ですから、川の復活は可能です。大阪市の観光を考えるとき、阪神高速の地下化と長堀・西横堀川の復活は必須。「江戸の深川 難波の堀江 木場の芸子の 唄は消え」(羅休)。
四ツ橋まで長堀通を歩きます。四ツ橋には小西来山の句碑。文化の町はまことに結構なのですが、たこ焼き屋が全くありません。
涼しさに四ツ橋を四つ渡りけり
本日は暑い、四ツ橋を復活してくれーと思いつつ東に行くと。クリスタ長堀の排気口が川跡にずどーん。
御堂筋まで来たときに、キタの書店に本が届いているのを思い出しましたから、長堀の徘徊はおしまい。とりーかーじ、よーそろー。ここからは神風連です。先ずは難波神社。
続いて、座摩(いかすり)神社。御祭神が今一分かりにくいのですが、様々な造化の作用が神格化されている感じです。7月22日の夏祭りのころからサギ草が咲くそうです。
サギ草
さらに、この度めでたく船渡御の神事が復活することになった御霊神社(7月15日やでー)、文楽座の跡でもあります。いずれの神社も、丁寧に見れば色々なものがあります。以前に一部ご報告していますね。
近くに「伏見呉服町の碑」と「松瀬青々生誕地の碑」、目指すキタの書店はもうすぐです。これもまた埋めてしまった西横堀川には、この辺りに「呉服橋」が架かっていたということです。松瀬青々は俳人、ホトトギスの編集にも携わった人物ですが、既に平生の世界では完全に埋もれてしまっています。
青々の句の一つ、「握りゐて女にもらう蛍かな」、おー、高雄で経験があるぞい。昭和12年に死んだオッサンと自分が同じことをしている。女性の手のひらの中で光るホタル、暗闇の中でその顔も青白く照らす、今や懐かしい思い出であります。
伏見呉服町の碑
さて、ついに梅田まで来てしまいました。既に夕刻ですが、キリンケラーヤマトにもおおえすにも空席があります。キリンケラーヤマトが入っているビルは近々建て直すとのこと。なじんだ地下1階の方は既に閉店していました。ウン、何か全般的に、ちょっと不景気なんと違う?おおえすの横にはエビスビールの専門店ができていました。ここも空席が目立ちます。というかビールを利用したカクテルが目玉のようですが、悪酔いしそうです。キリン対サッポロというところですが、ここはキリンに軍配を上げましょう。
中村真一郎の作品でしたか、知の巨人と呼ばれたとかの木村蒹葭堂にしても、歴史の教科書には一言半句も登場しなかったと思うのですが、どうしてなのでしょう。岩崎弥太郎の名は見ましたけど。
この土佐稲荷神社は三菱の守護神ですか。其角の句からすると、桜がかなりある様ですが。
「堺事件」と言えば、確か森鴎外にも同名の作品があったと思います。読んでいませんけど。それにしても、円形の碑とか兎の石像など、不思議な神社でもあります。加えて、歌碑の文字はまるで読めません。
近くの鰹座橋の名称からすると、この辺りに鰹の集積場でもあったのでしょうか。白髭橋は意味がよく分かりません。材木で栄えた場所なのですか。
続く座摩神社は「いかすり」と読むのですか?どう考えても「ざま」としか読めませんが。それにしても鷺草の名所とは、何とも可愛い神社です。本日はたこ焼きを諦められたとか。さぞ、心残りだったこととお察し致します。
西区なども後者のイメージで、中央図書館へ行くと、「あれ?大阪の人は読書家なんや。」と改めて思うことがあります。それはこちらが知らないだけで、今の大阪にも蒹葭堂や懐徳堂の流れを引く人々は多いのではないかなと思っています。
鰹は土佐の鰹が届いた処です。大正区の沖縄料理よろしく土佐料理を食わせる店の一つや二つあってもいいのにと思いますが、これも見つけられないだけかも知れません。
そういえば、この日はたこ焼きは食いませんでした。スルメの天ぷらはしっかりと食いましたよ。
浪速は愛染さんから始まる夏祭りのシーズンですね。東長堀川から道頓堀へと歌舞伎役者が船に乗って公演の挨拶をしていましたが、こんな汚い川に船を浮かべてご苦労様と同情したものです。
坐摩天井の天神底だったかしら、相場を表す言葉を聞いた記憶がありますが、どっちが天井でどっちが底だったかもわすれました。相場が乱高下したのでしょうか。ネットで検索したのですがどうもヒットしないですね。
四つ橋は小学生時代電気科学館に連れて貰ったのですが、あのどぶ川状態の長堀を見て大阪ってなんて汚い町だろうと思ったことでした。
新町・堀江と、この界隈は昔は趣があったはずなのですが、戦災の影響も大きかったのかも知れません。今は雑居ビルの林立する街になってしまっています。
それでも、西区の市岡高校やその周辺の小学校、他地域からの目で眺めると非常に上品な感じがします。というか、こちらが育った環境が野蛮すぎたのかなという気もしますが。
京セラドームは西長堀でしたか?2回行きましたのによく判りません。西区新町から船場界隈は仕事で月一回程度で約30年間通いましたが、歴史的建造物は全く判ずに通っていました。
こうして見せて頂いていると、神社って以外に多いのですね。これからは少しは目を開いて大人の?歩きをしなくては・・・と痛感しております。
もう10年くらい前、土佐安芸市を訪ねました。きっかけは、JRの「青春18切符」のポスターにのぞかな田園に建つ野時計の風景が載っていました、それが見たくて独りで飛んでいきました。安芸駅からレンタル自転車で回りました。三菱の家紋が入った岩崎弥太郎の生家も観光用に整備され塵ひとつない屋敷でした。ポスターの野時計は以外に小さな物でした。あの辺り一帯はビニールハウスばかりで折角のぞかな風景も半減するというもの。阪神のグランドは行っていませんが、駅前の喫茶店では阪神の話ばかりで賑わっていました。
いつも横道ばかりですみません。
京セラドームは西長堀から橋を渡っていった先になります。ドームができるときに、九条方面は大きく変わるのかなと思っていたら、基本的には何も変わっていません。
新町、30年前は少しはお茶屋もあったみたいですね。