1467年に始まった応仁の乱における東軍の主将は細川勝元、その後継は政元、政元に養子が3人あり、澄之、澄元、高国がこれです。実は細川氏の権力が最も高まったのは、この政元の時代で、斯波・畠山両氏と回り持ちであった管領の職も、政元以後は細川氏の独占となります。
この政元が養子の澄之に暗殺されたのが1507年、澄元と高国が連合して澄之に当たり、まもなく澄之は自殺に追い込まれます。その後は、おきまりのコース、澄元と高国が対立するようになり、長い戦いを続けます。1520年に至り澄元が京都を回復しますが、まもなく近江で軍勢を整えて攻め寄せた高国軍に敗北、澄元派の重鎮である三好之長は処刑され、澄元は阿波に逃れて、その地で病没します。
澄元の子は晴元、今度は高国と晴元の抗争が延々と続きます。晴元を支えるのは三好元長で之長の孫です。互いに勝ち負けがあり、晴元と元長は足利義維を擁して堺から京都を牽制します(堺幕府)。1528年以来、京都から逃れて各国を流れ歩きながら復仇の時をねらっていた高国は播磨で浦上村宗という協力者を得、さらに近江からは六角氏が侵攻するという計画も整い、1530年に畿内に攻め寄せます。
戦いは高国側有利に進み、1531年、今一歩で堺幕府を倒せるというときに、浦上氏の主人であった赤松氏(晴政[政祐]、父の義村は浦上村宗に暗殺されている。高国と義村は1511年の船岡山合戦時に敵対したが翌年和解)が裏切り、背後から浦上軍を攻撃、時宜を良く判断した三好元長の兵力投入もあって高国軍は壊滅しました。これが世に言う「大物(だいもつ)崩れ」であります。勝ちを得る直前に没落した高国はなおも逃れようとしましたが、大物城(現尼崎城祉)近辺で捕縛され、近くの寺で切腹させられました。勝ったぞーと思った瞬間の暗転、「崩れ」の名では「森山崩れ」なども有名ですね。
久しく高国の下で戦い、この時点では高国を見限り、晴元側となっていた細川尹賢は直後に晴元に暗殺されます。この尹賢の子で高国の養子となっていた氏綱は、やがて元長の子長慶と結び晴元に対抗することになりますが、これは後のこと。尹賢の父政賢は船岡山合戦で高国側に敗れて戦死していますね。あー、何てややこしいんだ(詠嘆)。
阪神電車大物駅を降りてすぐの所に「大物崩れ」の碑が建っています。付近には線路に沿った公園などがあり、「尼崎」でイメージする雑駁さというか、そのようなものとは無縁の処です。
阪神電車の車両基地に沿って高国が逃げたであろうルートを尼崎城祉に向かいます。床下川(尼崎城の外堀としても利用されたらしい)が近づいてくると、電車の発電所の建物が奇麗に保存されています。この後ろに立てられた新しいビルも煉瓦模様で建てられていますから、阪神電車やるやんけ!と申す処。
尼崎城祉には、図書館や神社、高校などが建っています。戸田氏が入部して築城したときには天守まで備えた立派な城だったそうですが、今は「城跡」として訪ねたらガックリときます。まあ、それでも近世の城がそっくりと残っているよりは高国の時代を偲ぶには良いかなとも思われます。おー、尼崎城といえば荒木村重の名も忘れてはいけませんね。
三の丸の跡には桜井神社、1711年から明治維新まで尼崎の殿様であった桜井松平氏の歴代藩主を祀る神社です。最後の藩主であった松平忠興は日本赤十字創立者の一人、今日の東日本大震災義援金の配布遅延を怒っているでしょう。
桜井神社・正面
桜井神社・裏から
初めて見たぞい、お守りの自動販売機。明らかに煙草の自動販売機の再利用です。国学の租、契沖法師を祀るお社もありました。西宮市の熊野神社に数学の神様がいらっしゃるので、契沖を国語の神様として、先ず英・社・理の神様をどこかでこじつけて、巡れば頭が良くなるという巡礼道をこさえてやろうかな。この神社、色々と説明が行き届いています。
契沖社
川を渡ると「ヒノデ阿免」の看板、「阿免」て何ぢゃ?しばらくウィンドーを睨んでいるうちに「飴」だと分かりました。
さらに進むと廃校になった中学校が公園になっていました。これはいい利用法ですね。
開明中公園
尼崎信用金庫の本店の近くに「尼信博物館」、尼信がこんなに立派な活動をしているとは知りませんでした。3階のうち、1階は何タラという画家の特別展、静物画には全く興味がないのでパス、2階の展示は尼崎藩とその歴史とでもいうべきものでなかなかに素晴らしい。見応えのある日本刀が多数展示されていました。しかし、あれで腹を切るというのは痛いでしょうねぇ(詠嘆)。小生は自分の足にナイフを突き立てて膿を出す手術をやったことがありますが、あれでもムチャクチャ根性が要りました。今、その跡は醜く残っています。わーい、医者嫌いの勲章ぢゃい!3階は「くらしナンチャラの展示」だったのでスルー、2階は完全に貸し切り状態、応対も非常に丁寧で気持ちの良い博物館でした。
尼信博物館
尼信旧本店
この近辺は「寺町」といって、尼崎築城の際に寺を集めたところです。阪神尼崎駅の北側には雑多な繁華街が広がりますが、南側は本当に静かです。何でもいいけど、いいオッサンとオバハンの自転車の二人乗りをよく見るところです。尼崎は条例で自転車の二人乗りを認めているのかな。
細川高国が切腹をさせられた廣徳寺もここに移転しています。「ここ」で切腹したのではありませんから、まあ寺の名を継いでいるということ。京都の本能寺と同じですね。けれども、高国のたの字も説明にはありません。妙心寺の東林院(高国の養子氏綱建立)に残る法体の高国像、穏和な人物を想像させます。対する細川晴元はもう立派な変質者です。この時に共に高国を倒した三好元長も翌年には主人晴元の裏切りによって堺で腹を切ることになります。やがて高国の養子である氏綱と晴元、氏綱側に転じた三好長慶と晴元の戦いが続いていくことになります。丹波の内藤、波多野、宇津氏の動きなどもこれに大いに関連しています。
廣徳寺
絵本太閤記がもとになっている話に光秀軍に追われた秀吉が、この寺に逃げ込み、頭を剃って僧に化けて危難を逃れたというのがあります。この時に秀吉が使用したすりこぎとすり鉢が残っているそうです。荒唐無稽と言う以外に言いようもないのですが、この寺にとっては史実なのでしょう。
大昔の高校の文化祭、本物の弥生式土器や石器の横に試験管を洗うブラシを「清少納言の歯ブラシ」として展示しました。小さな子を連れたお父さんが子供に「あんな大きな歯ブラシを使っていたんだよー」と説明するのを見て、シャレが通じない場合もあることを知って即座に撤去しましたが、ここでは何代目かの坊さんにすりこぎとすり鉢を手に入れて、もっともらしく話をしたのがいる。いまごろ、閻魔さんに舌を抜かれているのでしょうね。
やはり廣徳寺(ちょっと恥ずかしい)
戸田氏の菩提寺金昌寺
佐々成政が秀吉の命によって腹を切った法園寺もここに移転しています。境内には成政の墓もありました。傷口から出てきた臓物を大阪の方に投げて死んだそうです。まあ、そうでしょうね。これなどもNHKにかかれば「いい子ちゃん」にされてしまいますが。
法園寺
おもしろかったのは時宗の寺善通寺、これは珍しいですね。太平記に出ている秦武文にゆかりの寺だそうです。名前からして真言宗の寺が改宗したのかな等とも思えますが、四国と関係が深いようです。関係ないかも知れませんが土佐の長曽我部氏は秦氏ですね。この寺には首だけの「首無し」地蔵というのもあるそうなのですが、拝し損ねました。一遍の名を懐かしみたいところですが、今は踊り念仏というのをやっているようではありません。この地域は戦災にも遭っていますし、阪神淡路大震災もあり、基本的にはどの寺も鉄の要塞です。
善通寺
さて、前々から「2011年スジコンの旅」というのをやってみたいやってみたいと思っていました。しかし考えてみれば、スジコン入りのそば焼き(長田)、うどん(長田)、お好み焼き(高砂)、ラヂオ焼き(大阪)を一度に食う旅というのは、食に対する冒涜のようにも思われます。大食いをネタにしたテレビ番組なども制作者の精神の劣等をはっきりと示していますから、自分がこんなことをしてはいけない。ということで、スジコンの旅というやつは止めておいて、ボチボチとスジコン入りのものを食うていきます。
阪神尼崎駅から新在家駅に移動、本日は“日の出もり家”で「にくてん(スジコン入りお好み焼き)」であります。広大なるこの店、多くの人が入っていますが、妙に落ち着きます。新聞などを読みながら、ビールとともにオッサンの休日が謳歌できます。
にくてんぢゃー
小生は平生はギョウザなどは食わないのですが、隣のオッサン(といっても2メートルくらい離れている)が食うているのを見て思わず注文してしまいました。友人の歩く植物図鑑の作戦成功というところです。
ヌフフフフ、このギョウザの写真を見て、「食いたい、食いたい、食いたいよー。」とまた夢に見る人もいたりして…(笑)。各駅停車でトロトロと大阪に着くころには腹も減っているでしょうから、あとは串カツで〆であります。
この政元が養子の澄之に暗殺されたのが1507年、澄元と高国が連合して澄之に当たり、まもなく澄之は自殺に追い込まれます。その後は、おきまりのコース、澄元と高国が対立するようになり、長い戦いを続けます。1520年に至り澄元が京都を回復しますが、まもなく近江で軍勢を整えて攻め寄せた高国軍に敗北、澄元派の重鎮である三好之長は処刑され、澄元は阿波に逃れて、その地で病没します。
澄元の子は晴元、今度は高国と晴元の抗争が延々と続きます。晴元を支えるのは三好元長で之長の孫です。互いに勝ち負けがあり、晴元と元長は足利義維を擁して堺から京都を牽制します(堺幕府)。1528年以来、京都から逃れて各国を流れ歩きながら復仇の時をねらっていた高国は播磨で浦上村宗という協力者を得、さらに近江からは六角氏が侵攻するという計画も整い、1530年に畿内に攻め寄せます。
戦いは高国側有利に進み、1531年、今一歩で堺幕府を倒せるというときに、浦上氏の主人であった赤松氏(晴政[政祐]、父の義村は浦上村宗に暗殺されている。高国と義村は1511年の船岡山合戦時に敵対したが翌年和解)が裏切り、背後から浦上軍を攻撃、時宜を良く判断した三好元長の兵力投入もあって高国軍は壊滅しました。これが世に言う「大物(だいもつ)崩れ」であります。勝ちを得る直前に没落した高国はなおも逃れようとしましたが、大物城(現尼崎城祉)近辺で捕縛され、近くの寺で切腹させられました。勝ったぞーと思った瞬間の暗転、「崩れ」の名では「森山崩れ」なども有名ですね。
久しく高国の下で戦い、この時点では高国を見限り、晴元側となっていた細川尹賢は直後に晴元に暗殺されます。この尹賢の子で高国の養子となっていた氏綱は、やがて元長の子長慶と結び晴元に対抗することになりますが、これは後のこと。尹賢の父政賢は船岡山合戦で高国側に敗れて戦死していますね。あー、何てややこしいんだ(詠嘆)。
阪神電車大物駅を降りてすぐの所に「大物崩れ」の碑が建っています。付近には線路に沿った公園などがあり、「尼崎」でイメージする雑駁さというか、そのようなものとは無縁の処です。
阪神電車の車両基地に沿って高国が逃げたであろうルートを尼崎城祉に向かいます。床下川(尼崎城の外堀としても利用されたらしい)が近づいてくると、電車の発電所の建物が奇麗に保存されています。この後ろに立てられた新しいビルも煉瓦模様で建てられていますから、阪神電車やるやんけ!と申す処。
尼崎城祉には、図書館や神社、高校などが建っています。戸田氏が入部して築城したときには天守まで備えた立派な城だったそうですが、今は「城跡」として訪ねたらガックリときます。まあ、それでも近世の城がそっくりと残っているよりは高国の時代を偲ぶには良いかなとも思われます。おー、尼崎城といえば荒木村重の名も忘れてはいけませんね。
三の丸の跡には桜井神社、1711年から明治維新まで尼崎の殿様であった桜井松平氏の歴代藩主を祀る神社です。最後の藩主であった松平忠興は日本赤十字創立者の一人、今日の東日本大震災義援金の配布遅延を怒っているでしょう。
桜井神社・正面
桜井神社・裏から
初めて見たぞい、お守りの自動販売機。明らかに煙草の自動販売機の再利用です。国学の租、契沖法師を祀るお社もありました。西宮市の熊野神社に数学の神様がいらっしゃるので、契沖を国語の神様として、先ず英・社・理の神様をどこかでこじつけて、巡れば頭が良くなるという巡礼道をこさえてやろうかな。この神社、色々と説明が行き届いています。
契沖社
川を渡ると「ヒノデ阿免」の看板、「阿免」て何ぢゃ?しばらくウィンドーを睨んでいるうちに「飴」だと分かりました。
さらに進むと廃校になった中学校が公園になっていました。これはいい利用法ですね。
開明中公園
尼崎信用金庫の本店の近くに「尼信博物館」、尼信がこんなに立派な活動をしているとは知りませんでした。3階のうち、1階は何タラという画家の特別展、静物画には全く興味がないのでパス、2階の展示は尼崎藩とその歴史とでもいうべきものでなかなかに素晴らしい。見応えのある日本刀が多数展示されていました。しかし、あれで腹を切るというのは痛いでしょうねぇ(詠嘆)。小生は自分の足にナイフを突き立てて膿を出す手術をやったことがありますが、あれでもムチャクチャ根性が要りました。今、その跡は醜く残っています。わーい、医者嫌いの勲章ぢゃい!3階は「くらしナンチャラの展示」だったのでスルー、2階は完全に貸し切り状態、応対も非常に丁寧で気持ちの良い博物館でした。
尼信博物館
尼信旧本店
この近辺は「寺町」といって、尼崎築城の際に寺を集めたところです。阪神尼崎駅の北側には雑多な繁華街が広がりますが、南側は本当に静かです。何でもいいけど、いいオッサンとオバハンの自転車の二人乗りをよく見るところです。尼崎は条例で自転車の二人乗りを認めているのかな。
細川高国が切腹をさせられた廣徳寺もここに移転しています。「ここ」で切腹したのではありませんから、まあ寺の名を継いでいるということ。京都の本能寺と同じですね。けれども、高国のたの字も説明にはありません。妙心寺の東林院(高国の養子氏綱建立)に残る法体の高国像、穏和な人物を想像させます。対する細川晴元はもう立派な変質者です。この時に共に高国を倒した三好元長も翌年には主人晴元の裏切りによって堺で腹を切ることになります。やがて高国の養子である氏綱と晴元、氏綱側に転じた三好長慶と晴元の戦いが続いていくことになります。丹波の内藤、波多野、宇津氏の動きなどもこれに大いに関連しています。
廣徳寺
絵本太閤記がもとになっている話に光秀軍に追われた秀吉が、この寺に逃げ込み、頭を剃って僧に化けて危難を逃れたというのがあります。この時に秀吉が使用したすりこぎとすり鉢が残っているそうです。荒唐無稽と言う以外に言いようもないのですが、この寺にとっては史実なのでしょう。
大昔の高校の文化祭、本物の弥生式土器や石器の横に試験管を洗うブラシを「清少納言の歯ブラシ」として展示しました。小さな子を連れたお父さんが子供に「あんな大きな歯ブラシを使っていたんだよー」と説明するのを見て、シャレが通じない場合もあることを知って即座に撤去しましたが、ここでは何代目かの坊さんにすりこぎとすり鉢を手に入れて、もっともらしく話をしたのがいる。いまごろ、閻魔さんに舌を抜かれているのでしょうね。
やはり廣徳寺(ちょっと恥ずかしい)
戸田氏の菩提寺金昌寺
佐々成政が秀吉の命によって腹を切った法園寺もここに移転しています。境内には成政の墓もありました。傷口から出てきた臓物を大阪の方に投げて死んだそうです。まあ、そうでしょうね。これなどもNHKにかかれば「いい子ちゃん」にされてしまいますが。
法園寺
おもしろかったのは時宗の寺善通寺、これは珍しいですね。太平記に出ている秦武文にゆかりの寺だそうです。名前からして真言宗の寺が改宗したのかな等とも思えますが、四国と関係が深いようです。関係ないかも知れませんが土佐の長曽我部氏は秦氏ですね。この寺には首だけの「首無し」地蔵というのもあるそうなのですが、拝し損ねました。一遍の名を懐かしみたいところですが、今は踊り念仏というのをやっているようではありません。この地域は戦災にも遭っていますし、阪神淡路大震災もあり、基本的にはどの寺も鉄の要塞です。
善通寺
さて、前々から「2011年スジコンの旅」というのをやってみたいやってみたいと思っていました。しかし考えてみれば、スジコン入りのそば焼き(長田)、うどん(長田)、お好み焼き(高砂)、ラヂオ焼き(大阪)を一度に食う旅というのは、食に対する冒涜のようにも思われます。大食いをネタにしたテレビ番組なども制作者の精神の劣等をはっきりと示していますから、自分がこんなことをしてはいけない。ということで、スジコンの旅というやつは止めておいて、ボチボチとスジコン入りのものを食うていきます。
阪神尼崎駅から新在家駅に移動、本日は“日の出もり家”で「にくてん(スジコン入りお好み焼き)」であります。広大なるこの店、多くの人が入っていますが、妙に落ち着きます。新聞などを読みながら、ビールとともにオッサンの休日が謳歌できます。
にくてんぢゃー
小生は平生はギョウザなどは食わないのですが、隣のオッサン(といっても2メートルくらい離れている)が食うているのを見て思わず注文してしまいました。友人の歩く植物図鑑の作戦成功というところです。
ヌフフフフ、このギョウザの写真を見て、「食いたい、食いたい、食いたいよー。」とまた夢に見る人もいたりして…(笑)。各駅停車でトロトロと大阪に着くころには腹も減っているでしょうから、あとは串カツで〆であります。
そう言えば、日本史の教師は副校長で、サボッてテニスをしているところを見つかって、後日の授業で衆目の面前で何度か皮肉を言われました。ただ、一度、質問に見事(たまたまですが)返答した事があり、その時は「今日はよう知ってるなぁ」と、皮肉たっぷりに言われました。その先生の息子がたまたま家内と同級生で、今は小児科の医者らしいのですが、性格が好かん、との家内の意見です。先生はとっくに亡くなっておられます。
話は横道へ反れましたが、尼崎がそんな由緒のある土地とは知りませんでした。何度か仕事の関係で行きましたけど、煙とどぶ川のイメージが強く残っています。何でも、軽く見たらダメだと、今更の如く痛感しております。それにしても、こんな立派な城址があるとは、尼崎(何でこんな名前なのか?)を再認識しないといけません。日赤の創始者などと、立派な人物も輩出しているのでから・・・。
英・社・理の神様の巡礼道はメイ案ですねぇ。阿免が飴とは、なかなか愉快です。さしずめ多幸薬とか楚芭とか美瑠みたいなモノでしようか。
廃校の学校が公園に変身は素敵な転身と思います。我が母校も何とかならないものかと。徘徊堂さんのご尽力で猫楽園なんかも宜しいのでは・・・。それにしても(またしても)、膿出しを自刃でされたとか。物凄い勇気(白虎隊も顔負けの)私などは棘を抜くくらいしか経験ありません。旭日章をもらっても、自傷行為はどうも苦手です。
それにしても(3度目ですが)、文字通り骨肉相争う時代は、日本史では暗黒時代なのでしょうか。それとも弱肉強食は必然の世の習いで、むしろ武士以外は平然と暮らして居たのかも。宇津氏も尼崎に関係するとは、ある意味で世間は狭いものです。
それにしても(またまた)清少納言の歯ブラシは、秀吉の擂粉木よりマシかも知れません。当時は入れ歯など無かったでしょうから、歯磨きは最も大切な健歯維持法ですから。首だけの首無し地蔵ですか。鮹の入ってないたこ焼きと同じではないですか。肉天をスジコンと呼ぶのですか。由来は何でしょう。まぁ、そろそろトシを考えて大食は止めた方が無難です。まだ、大飲の方が回復は早いでしょう。それにしても(5度目ですか)珍しい餃子ですねぇ。その夜は、仕上げの串カツと共に、串んせずに餃さんな夢を見られたことでしょう。
丹波の守護所は八木説が有力なようですから、高国も一度や二度は八木に居たことはあるのではと思いますし、園部村に禁制を出した記録もあります。澄之は居たことは確かです。
小生は医者に行くのが大嫌いで、昨年の今頃に泣く泣く医者にかかるまでは二十数年間いかなる医者にも行きませんでした。量子力学?みたいなものですが、医者にかかるから病気になると思っています。ガンなんかは体の中でできていても楽しく過ごしていたら、いつのまにか消え去るのに病院なんぞに入った瞬間に「わー」と広がるのではないでしょうか。
スジコンは牛すじとこんにゃくのことです。長田あたりでは「ぼっかけ」と言ったりもするそうです。今、写真を見たらギョウザのよこのおしぼりが何か不潔感を漂わせていますね(笑)。
尼崎城趾、>今は「城跡」として訪ねたらガックリときます。
と書いておられますが、立派な城壁ではないですか。これは最近築き直されたものですか?ある城オタクのブログに周山城趾の記事を読んだ時に、変に手を入れられていないのに感動した、という意味のことが書かれていたことを思い出しています。平城と山城ではまた違った感想になるのかもしれませんが。そういう意味で城趾をみるのも乙な物かとも思います。
応仁の乱の頃や太平記の時代はあまり心が行かないのですが、和田山近くの竹田城趾に行った時は、勉強しないといけんなあ、と思いました。太平記の時代は光厳天皇を語るにも不可欠だとは分かっているのですが、まだ入り込めていません。
色々お教え頂きたい気持ちです。
尼崎城は、石垣と白壁の一部を復元しただけで、これからも整備する計画はあるのでしょうが、図書館の北側などは工事がストップしたまま何か放置してあるような感じでした。周山城の石垣は当時のままだと思いますから、あのままで草刈り程度の整備が望ましいのではと思っております。丹波の争乱を調べていて、八木城にも久しぶりに登りたいなあと思っています。
また最近、常照皇寺の山陵に今一人眠っておられる後花園天皇についても関心を持つようになってきました。足利義政の奢侈を戒めるなど、やはり素晴らしい方だったようです。堀川紫明に火葬塚がありますから、御陵には納骨されているのですね。
宮内庁の御陵一覧、光厳天皇は北朝の天皇ということで載っていません。何時まで水戸学のアホな影響を受けてるねんと思いました。現皇室は北朝の御子孫ですのにね。
司馬遼太郎は北朝の血筋を引く明治天皇の苦悩を旨く表現していますね。光厳天皇の遺言とこの御陵の中を見るとその人柄が分かる様な気がします。山国陵の中身を見たいですか?
南北どちらが正統で、どちらがそうではないとかいう議論は現代では意味を為さないと思います。第一後醍醐天皇がきちんとルールを守っていれば光厳天皇はいずれ即位されたのですから、この方を歴代御陵の中から省くというのはけしからんと思います。
吉川英治の『私本太平記』も一度は読んでみようかと思ったことがありましたが、あの本の分厚さを見ただけでスーと読む気をなくし、唯でさえ判らない南北朝の動乱を知るすべもなしのまま過ぎています。
傷の処理をご自分でされたとか!、ああいったものは他人(医者)に容赦なくしてもらうから出来る物であってgunkanatagoさんの根性は三島由紀夫同等でホンマモンの凄いものを感じました。
歴史のことを省いてのお城廻りなどありえないでしょうが、私がそれなんです。弘前城から始まり熊本城までお城と聞いただけで見たくなり随分廻りました。以前手まり歌にある♪紀州の殿様お国入り・・・♪の広い和歌山城で男性に付きまとわれ(こんな婆さんが)どこをどうして街まで下りて来たか全く覚えてない怖いことがありました。吉宗様に叱られそうですが、それ以後南紀はどうも行けなくて・・・。
>友人の歩く植物図鑑の作戦成功というところです。何気泣く書いておいでですが、図鑑はうら若き女性^^
あんなべったらとした餃子があるのですね?美味しいでしょう。
南北朝から応仁の乱、戦国時代、信長以後のものはいっぱいあるのですが、以前となるとあまりありませんね。細川政元なんかは愛宕信仰に熱心なあまり(空を飛びたかったみたい)、妻をめとらなかったけったいな人物で、非常におもしろいのですが。
傷の処理も病気も大抵は自分で治してますよ。その辺だけは「家康ダー」と威張っています。
歩く植物図鑑は、おっちゃんですよ。専門は国文なのですが、元理科系ということもあって植物・鳥・虫などについて、いつも教えてもらっています。ささ舟様のブログにも随分とお世話になっていますが、先ず名を知ることが大切ですね。名を知れば、そこにあるのが見えてきます。意識しなければ景色の中に埋没してしまっていますから。