桓武天皇、平城天皇が恐怖した最大の怨霊は崇道天皇早良親王ですが、その霊は後世に菅公が登場するまでは、最も強い=最も崇敬を集めた怨霊でした。無論、上御霊神社の御祭神でもあり、下御霊神社の御祭神でもあり、単独で崇道神社が京都の高野にあり、奈良には崇道天皇社というお社があります。調べればまだまだ見つかるかと思います。
この崇道天皇の怨霊の出現は日本後紀逸文延暦11年(792)に「(6月)癸巳。皇太子久病。卜之祟道天皇為祟。遣諸陵頭調子王等於淡路国、奉謝其霊。」とあるのが最初ですが、延暦19年(800)に「(6月)己未。詔曰。朕有所思。宜故皇太子早良親王、追称祟道天皇、故廃皇后井上内親王、追復称皇后。其墓並称山陵。令従五位上守近衛少将兼春宮亮丹波守大伴宿祢是成、率陰陽師衆僧、鎮謝在淡路国祟道天皇山陵。」とありますから、「崇道天皇祟りを為す」とある卜占の結果は、日本後紀編者の知識によって記されているもので、「崇道天皇」の名は800年に贈られたものです。細かいことはここまでにして、この800年という年に、桓武天皇の人生に大きな影響を与えた二人、つまり早良親王に天皇、井上内親王に皇后の名を追贈しているのです。これは、6月に入って駿河国からの報告に「自去三月十四日、迄四月十八日、富士山巓自焼。昼即烟気暗瞑、夜即火光照天。其声若雷、灰下如雨。山下川水、皆紅色也。」とあったことを受けたものかも知れません。
井上内親王と他戸親王は以前に申し述べましたように、正統を継ぐべきところを斥けられて不幸な最期を遂げました。早良親王はどうかというと、桓武・早良の父に当たる光仁天皇の意思は寧ろ早良にあったようです。山部親王時代の桓武は、どうも父帝から疎まれていた形跡がある。桓武が即位して、その時に弟の早良親王を皇太子としたのは父の意向を受けてのことでした。桓武天皇としては、先に聖武大帝の正統王朝を根こぎにし、後に父の意思によって正統性を与えられた弟を殺すことになりました。今はガン封じのまじないに成り下がっていますが、奈良の大安寺の光仁会などは、桓武による父帝への慰霊が元なのではないかと思われます。
さて、その早良親王事件を略述します。785年、長岡京遷都の翌年、7月に桓武天皇は平城京へ向かいます。伊勢の斎宮となる朝原内親王(井上内親王の女)を送る為と称しています。4日後、大伴家持が病死します。9月、造長岡京使に就いていた藤原種嗣が暗殺されます。3日後、続日本紀には「車駕至自平城。捕獲大伴繼人。同竹良并黨与數十人。推鞫之。並皆承伏。依法推斷。或斬或流。」とあり、ひ実行犯グループの処分が行われます。そして10月に廃太子、以後のことは世紀の史書たる続日本紀からは削除されていますが、早良親王は乙訓寺に幽閉され、淡路に流される途中で食を断ち亡くなったということです。
その後は、桓武天皇の身辺にろくな事がない、夫人の藤原旅子(淳和天皇母)、皇后の藤原乙牟漏(平城天皇・嵯峨天皇母)、実母の高野新笠(早良親王の母でもある)が相次いで亡くなり、皇太子の安殿親王(平城天皇)は病気となる。この病気を卜したところ、早良親王の祟りと出た訳です。これを聞いた桓武天皇は心底「ゾー」としたのかも知れません。また、自然災害も相次いでおこったために、「これは本物だ」ということになり、800年の天皇号の追贈となったのでしょう。その後も「崇道天皇の霊に謝する」という意味合いのことが何度も行われ、最後は有名な桓武天皇の遺勅「勅。縁延暦四年事配流之輩。先已放還。今有所思。不論存亡。宜叙本位。復大伴宿祢家持從三位。藤原朝臣小依從四位下。大伴宿祢繼人。紀朝臣白麻呂正五位上。大伴宿祢眞麻呂。大伴宿祢永主從五位下。林宿祢稻麻呂外從五位下。奉爲崇道天皇。令諸国国分寺僧春秋二仲月別七日。讀金剛般若經。」となり、その直ぐ後に「有頃天皇崩於正寢。春秋七十。」という崩御記事となるのです。すなわち、藤原種嗣暗殺事件に関しては、事件そのものは消せぬにしても、その関与した者は全て何事もなかったかのように扱うことになるのですが、種嗣の子である仲成と薬子が再び重大事件の主役として登場してきます。ですが、その前に伊予親王事件について考えねばなりません。
崇道天皇の霊は各地の社に鎮まり、いまや怨念は消え果てて上御霊神社の境内には清々しい気が満ちあふれています。この事件は先の井上内親王事件と共に帝王と呼ばれる桓武天皇の性格を考える上で大きな示唆を与えてくれます。
写真は、内容とは何の関係もない石仏峠。
この崇道天皇の怨霊の出現は日本後紀逸文延暦11年(792)に「(6月)癸巳。皇太子久病。卜之祟道天皇為祟。遣諸陵頭調子王等於淡路国、奉謝其霊。」とあるのが最初ですが、延暦19年(800)に「(6月)己未。詔曰。朕有所思。宜故皇太子早良親王、追称祟道天皇、故廃皇后井上内親王、追復称皇后。其墓並称山陵。令従五位上守近衛少将兼春宮亮丹波守大伴宿祢是成、率陰陽師衆僧、鎮謝在淡路国祟道天皇山陵。」とありますから、「崇道天皇祟りを為す」とある卜占の結果は、日本後紀編者の知識によって記されているもので、「崇道天皇」の名は800年に贈られたものです。細かいことはここまでにして、この800年という年に、桓武天皇の人生に大きな影響を与えた二人、つまり早良親王に天皇、井上内親王に皇后の名を追贈しているのです。これは、6月に入って駿河国からの報告に「自去三月十四日、迄四月十八日、富士山巓自焼。昼即烟気暗瞑、夜即火光照天。其声若雷、灰下如雨。山下川水、皆紅色也。」とあったことを受けたものかも知れません。
井上内親王と他戸親王は以前に申し述べましたように、正統を継ぐべきところを斥けられて不幸な最期を遂げました。早良親王はどうかというと、桓武・早良の父に当たる光仁天皇の意思は寧ろ早良にあったようです。山部親王時代の桓武は、どうも父帝から疎まれていた形跡がある。桓武が即位して、その時に弟の早良親王を皇太子としたのは父の意向を受けてのことでした。桓武天皇としては、先に聖武大帝の正統王朝を根こぎにし、後に父の意思によって正統性を与えられた弟を殺すことになりました。今はガン封じのまじないに成り下がっていますが、奈良の大安寺の光仁会などは、桓武による父帝への慰霊が元なのではないかと思われます。
さて、その早良親王事件を略述します。785年、長岡京遷都の翌年、7月に桓武天皇は平城京へ向かいます。伊勢の斎宮となる朝原内親王(井上内親王の女)を送る為と称しています。4日後、大伴家持が病死します。9月、造長岡京使に就いていた藤原種嗣が暗殺されます。3日後、続日本紀には「車駕至自平城。捕獲大伴繼人。同竹良并黨与數十人。推鞫之。並皆承伏。依法推斷。或斬或流。」とあり、ひ実行犯グループの処分が行われます。そして10月に廃太子、以後のことは世紀の史書たる続日本紀からは削除されていますが、早良親王は乙訓寺に幽閉され、淡路に流される途中で食を断ち亡くなったということです。
その後は、桓武天皇の身辺にろくな事がない、夫人の藤原旅子(淳和天皇母)、皇后の藤原乙牟漏(平城天皇・嵯峨天皇母)、実母の高野新笠(早良親王の母でもある)が相次いで亡くなり、皇太子の安殿親王(平城天皇)は病気となる。この病気を卜したところ、早良親王の祟りと出た訳です。これを聞いた桓武天皇は心底「ゾー」としたのかも知れません。また、自然災害も相次いでおこったために、「これは本物だ」ということになり、800年の天皇号の追贈となったのでしょう。その後も「崇道天皇の霊に謝する」という意味合いのことが何度も行われ、最後は有名な桓武天皇の遺勅「勅。縁延暦四年事配流之輩。先已放還。今有所思。不論存亡。宜叙本位。復大伴宿祢家持從三位。藤原朝臣小依從四位下。大伴宿祢繼人。紀朝臣白麻呂正五位上。大伴宿祢眞麻呂。大伴宿祢永主從五位下。林宿祢稻麻呂外從五位下。奉爲崇道天皇。令諸国国分寺僧春秋二仲月別七日。讀金剛般若經。」となり、その直ぐ後に「有頃天皇崩於正寢。春秋七十。」という崩御記事となるのです。すなわち、藤原種嗣暗殺事件に関しては、事件そのものは消せぬにしても、その関与した者は全て何事もなかったかのように扱うことになるのですが、種嗣の子である仲成と薬子が再び重大事件の主役として登場してきます。ですが、その前に伊予親王事件について考えねばなりません。
崇道天皇の霊は各地の社に鎮まり、いまや怨念は消え果てて上御霊神社の境内には清々しい気が満ちあふれています。この事件は先の井上内親王事件と共に帝王と呼ばれる桓武天皇の性格を考える上で大きな示唆を与えてくれます。
写真は、内容とは何の関係もない石仏峠。