本日は、知人の家を訪ねて京田辺市。久しく田辺町と言ったものが市制施行にともない和歌山県の田辺市と区別するために上に「京」を付けたものですが、素朴に受け取って「京都府の田辺市」、けれども「京」の字にこだわり、「どーだ!京都だぞー」という意識があるようにも思われます。素直に受け止めればいいのにひねくれてるなあと言われるかな。京丹波町とか京丹後市なども何か無理があるように思われます。東丹波町、東丹後市でええやんけ。食べ物などは上に「京」か付いたらもう「薄味」「しゃばしゃば」と言うことになりますね。京風コーヒーて、結局アメリカンやんけ。閑話休題。
この町や町周辺の実態からいくと「京」よりも「山城」を付けるほうがいいと思います。国衙の位置は時代によって移ろったようですが、奈良時代まではすぐ近くの上狛にあったということです。この木津川の氾濫源に開けた平野は、応仁の乱や山城の国一揆で数限りなく守護・国人層が駆け抜けた土地です。応仁の乱のきっかけとなった上御霊の森での戦いは畠山政長と義就の戦いでした。東西両軍の和議の後もこの南山城の地では両者が戦いをやめない。「めーわくやのー」と土地の国人層が立ち上がったのが、国一揆の始まり。
近年は関西文化学術研究都市の開発に伴い「同志社大学」がキャンパスを建設したところです。京都出身の同大学生などはいささか都落ちの悲哀と田舎への親しみを込めて「たんべ」と呼んでいますね。「1回生と2回生の間はタンベに行かんとあかんねん。」てな感じで。
その都市構想の進展に伴って例の福知山線の脱線事故をおこした「宝塚発同志社前行」というような「エッ!」と思うような列車の運行も始まり、片町線なども学研都市線と改まって四条畷や大東なども随分と便利になりました。
学研都市の建設そのものは一進一退、進出を約束していた京都の企業でも間際になって「やっぱり本社は便利な所にー」と他企業を裏切った例もありますし、全国規模の企業の中にも一旦進出したのにあっさりと撤退した企業もあります。まあそれでも、この都市構想によって南山城の景観は随分と変わりました。
知人の家はもうスンゴイ家でした。小生などいよいよの時にはこの家の駐車場にテントを張ろうと思ったぐらいです。用事が済んで、「ここから奈良辺りに向かおうかなー」等と考えたのですが、ナビの案内では奈良方面・京都方面のどちらともに「→」、つまり渋滞を示すシルシが出ています。「渋滞に巻き込まれるぐらいなら死んだ方がましぢゃ。」と思っていたら、何やら向こうに石標が見えます。
石標には「飯岡古墳群」の文字が!「ラッキー」ということで、奈良行きも即刻やんぴであります。後で知ったのですが、この付近は「玉露」にする茶の産地としても有名なようです。けれども茶を飲ましてくれるところはありませんし、販売所も全くありません。農協の前には平成22年の里芋泥棒の件と「不審者注意」のポスター。そういえば、唯一すれ違ったおばはん、胡散臭げにこちらを見ていたな。「大丈夫かな?もう通報してたりして。」等と思いながらウロウロとします。
犯行があった倉庫
飯岡古墳群は前期から後期までを通して古墳の築造が続けられたところで、円墳が中心ですが、前方後円墳も見ることができます。同志社大学の構内に「継体天皇綴喜宮跡」の石碑がありますが、この古墳群の中にも継体天皇の皇子の墓であるという伝承を持つ古墳もあるそうです。
薬師山古墳の上にはお堂が造られていました。この時期の古墳見学、虫除けは必携です。小生は高取の束明神古墳でも山城町の椿井大塚山古墳でも何十ヶ所も藪蚊にやられています。今日はいきなりの古墳見学なので、その準備はしていません。「大丈夫かなー」とビビリながら墳丘に登りましたが、何と何と奇跡的に藪蚊が全くいません。
この飯岡と呼ばれる高台、木津川の右岸に沿う形で独立して高くなっています。注意して探せば中世の砦跡なども見つかりそうです。景色は素晴らしいし、北側を見ると愛宕山がはっきりと見えます。ということは愛宕信仰の名残などもあるかも知れない。
ゴロゴロ山古墳は継体天皇の皇子である椀子皇子の墓であるという伝承があります。継体天皇はその末年に天皇も皇太子も同日に亡くなったという「日本書紀所引百済本記」の記事があり、安閑・宣化朝と欽明朝の対立が推測されていますが、この椀子皇子、どのような人生を過ごされたのかなどは全くわかりません。欽明天皇(系譜上は継体天皇の皇子)にも椀子皇子という皇子がおられたことも伝わっています。どうも「ワンコ」と読むらしいのですが、とっても親しみが持てる名前です。「ニャンコ皇子」はいないのかな。
さて、他にも幾つかの古墳があるのですが、パンフレットも何もないので、「よし!あの丘!」と目指して行ってみると古墳でも何でもないところだったりして、腹も減ってきました。本日はここで打ち切り、改めて資料を得た後に再挑戦することにします。
車で来ていることもありますが、この付近には「飲み屋」は全くありません。今度、電車とバスで来たときには駅前に何かあるかな?一休寺納豆を買いに行くのもいいかな。
依然として、ナビの渋滞マークは消えていません。国道1号線に出る道も混んでいるようです。何で京田辺から脱出できないのだーとよーく見たら、唯一、生駒に抜ける道が空いているみたいです。「そーだ!茶筅の里である高山に行こう!高山でおかきを買おう」、それが一番楽しそうです。…結果、高山のおかき工場は閉まっていました(泣)。
帰宅後に改めて地図を見ると、何と木津川を挟んで向こう側は「玉水」でした。この飯岡は玉水をウロウロしているときには全く視野に入っていなかった地域です。「そーか、玉水と同志社前て、こんなに近いんや。」、改めて頭の中の地図が「電車中心」になっていて、「歩く仕様」になっていないことに気付かされました。たまに車で出かけて、そんなことに気が付くとは何かけったいですね。「そら、昔の人の感覚を得るにはあと3世紀ぐらいかかりそう」であります。
この町や町周辺の実態からいくと「京」よりも「山城」を付けるほうがいいと思います。国衙の位置は時代によって移ろったようですが、奈良時代まではすぐ近くの上狛にあったということです。この木津川の氾濫源に開けた平野は、応仁の乱や山城の国一揆で数限りなく守護・国人層が駆け抜けた土地です。応仁の乱のきっかけとなった上御霊の森での戦いは畠山政長と義就の戦いでした。東西両軍の和議の後もこの南山城の地では両者が戦いをやめない。「めーわくやのー」と土地の国人層が立ち上がったのが、国一揆の始まり。
近年は関西文化学術研究都市の開発に伴い「同志社大学」がキャンパスを建設したところです。京都出身の同大学生などはいささか都落ちの悲哀と田舎への親しみを込めて「たんべ」と呼んでいますね。「1回生と2回生の間はタンベに行かんとあかんねん。」てな感じで。
その都市構想の進展に伴って例の福知山線の脱線事故をおこした「宝塚発同志社前行」というような「エッ!」と思うような列車の運行も始まり、片町線なども学研都市線と改まって四条畷や大東なども随分と便利になりました。
学研都市の建設そのものは一進一退、進出を約束していた京都の企業でも間際になって「やっぱり本社は便利な所にー」と他企業を裏切った例もありますし、全国規模の企業の中にも一旦進出したのにあっさりと撤退した企業もあります。まあそれでも、この都市構想によって南山城の景観は随分と変わりました。
知人の家はもうスンゴイ家でした。小生などいよいよの時にはこの家の駐車場にテントを張ろうと思ったぐらいです。用事が済んで、「ここから奈良辺りに向かおうかなー」等と考えたのですが、ナビの案内では奈良方面・京都方面のどちらともに「→」、つまり渋滞を示すシルシが出ています。「渋滞に巻き込まれるぐらいなら死んだ方がましぢゃ。」と思っていたら、何やら向こうに石標が見えます。
石標には「飯岡古墳群」の文字が!「ラッキー」ということで、奈良行きも即刻やんぴであります。後で知ったのですが、この付近は「玉露」にする茶の産地としても有名なようです。けれども茶を飲ましてくれるところはありませんし、販売所も全くありません。農協の前には平成22年の里芋泥棒の件と「不審者注意」のポスター。そういえば、唯一すれ違ったおばはん、胡散臭げにこちらを見ていたな。「大丈夫かな?もう通報してたりして。」等と思いながらウロウロとします。
犯行があった倉庫
飯岡古墳群は前期から後期までを通して古墳の築造が続けられたところで、円墳が中心ですが、前方後円墳も見ることができます。同志社大学の構内に「継体天皇綴喜宮跡」の石碑がありますが、この古墳群の中にも継体天皇の皇子の墓であるという伝承を持つ古墳もあるそうです。
薬師山古墳の上にはお堂が造られていました。この時期の古墳見学、虫除けは必携です。小生は高取の束明神古墳でも山城町の椿井大塚山古墳でも何十ヶ所も藪蚊にやられています。今日はいきなりの古墳見学なので、その準備はしていません。「大丈夫かなー」とビビリながら墳丘に登りましたが、何と何と奇跡的に藪蚊が全くいません。
この飯岡と呼ばれる高台、木津川の右岸に沿う形で独立して高くなっています。注意して探せば中世の砦跡なども見つかりそうです。景色は素晴らしいし、北側を見ると愛宕山がはっきりと見えます。ということは愛宕信仰の名残などもあるかも知れない。
ゴロゴロ山古墳は継体天皇の皇子である椀子皇子の墓であるという伝承があります。継体天皇はその末年に天皇も皇太子も同日に亡くなったという「日本書紀所引百済本記」の記事があり、安閑・宣化朝と欽明朝の対立が推測されていますが、この椀子皇子、どのような人生を過ごされたのかなどは全くわかりません。欽明天皇(系譜上は継体天皇の皇子)にも椀子皇子という皇子がおられたことも伝わっています。どうも「ワンコ」と読むらしいのですが、とっても親しみが持てる名前です。「ニャンコ皇子」はいないのかな。
さて、他にも幾つかの古墳があるのですが、パンフレットも何もないので、「よし!あの丘!」と目指して行ってみると古墳でも何でもないところだったりして、腹も減ってきました。本日はここで打ち切り、改めて資料を得た後に再挑戦することにします。
車で来ていることもありますが、この付近には「飲み屋」は全くありません。今度、電車とバスで来たときには駅前に何かあるかな?一休寺納豆を買いに行くのもいいかな。
依然として、ナビの渋滞マークは消えていません。国道1号線に出る道も混んでいるようです。何で京田辺から脱出できないのだーとよーく見たら、唯一、生駒に抜ける道が空いているみたいです。「そーだ!茶筅の里である高山に行こう!高山でおかきを買おう」、それが一番楽しそうです。…結果、高山のおかき工場は閉まっていました(泣)。
帰宅後に改めて地図を見ると、何と木津川を挟んで向こう側は「玉水」でした。この飯岡は玉水をウロウロしているときには全く視野に入っていなかった地域です。「そーか、玉水と同志社前て、こんなに近いんや。」、改めて頭の中の地図が「電車中心」になっていて、「歩く仕様」になっていないことに気付かされました。たまに車で出かけて、そんなことに気が付くとは何かけったいですね。「そら、昔の人の感覚を得るにはあと3世紀ぐらいかかりそう」であります。
私が小学校5~6年生に掛けてちょっと好きだった子です。ただ、京田辺市の「京」に彼女は関係ありません。綴喜郡の頃から住んでいて、たまたま改変されたのです。まぁ、仰る様に、やたら「京」の文字を付ければええ、と言うものでもありません。
付けて好いのは「京女」くらいでしょうか。東京では東男に東女でしょうから、大阪では大男に大女となりますか・・・。
話が横道へ反れました。どちらにしましても、学研都市は縁がなく過ぎております。玉露と里芋で有名なのですか。それに、芋泥棒はそんなに大事件だったのですか。今回は通報されずに何よりでしたが、今は防犯カメラもあるでしょうし。
それより、古墳の丘に藪蚊が1匹もいない方が異常ではないですか。木々が繁っていれば、虫や爬虫類が棲息するのが好ましい環境と思うのですが・・・。愛宕山が見える景色は中々のものですが。
ただ、渋滞続きとは日曜日なら仕方のないかも。納豆も欠餅も酒精にも縁が無く、血管には良好な健康的なドライブだったみたいですネ。次回は徒歩の訪問記を期待しています。
「京」の字を付けてふさわし京時雨(道草)
芋泥棒はそれはもう大事件だったようです。まあ考えてみれば、苦労して大きくして出荷のために収穫して置いておいたのをゴッソリと盗まれたのですから、それは悔しいでしょうね。一昔前なら村人みんなで犯人を捕まえたら殴り殺すことも可能だったのですが、今は犯罪者の人権の方が大切にされるけったいな時代ですね。それでも多分防犯カメラは全く設置されていないと思います。
古墳に何故蚊がいなかったのかは今も不明です。「…ちょっと好きだった子です」、一体何人いるのかなー(爆)。
田辺界隈は山背ですが、同じ山背でも木津川右岸の方が歴史的な遺跡が多い様に思うのですがどうなのでしょうね。でも今回もちょっと行くと古墳に出逢われた様ですね。一休寺は時代的には山背でなく山城でしょう。その納豆、懐かしいです。あれは日本酒に合うかなとも思いますが。
かの学研都市はどうなっているのでしょうね。最近そのニュースはとんと耳にしません。ただニュータウンがひたひたと押し寄せています。まあ近鉄でどんどん大阪に吸い込まれていく人の動きでしょう。
地図を見ていたら面白いのはここに自衛隊の弾薬庫があるのですね。飯盛山では敵機の襲来を監視する施設跡を見た記憶があります。
地図を見ていたら我が二十歳台、この対岸の城陽、ここは世界一の金箔の産地なのですが、その技術でラメ(金銀糸)業界に革命的な製品を作ろうとある町工場の社長と開発を進めていて、夕方大阪からサンプルを届けるというの続けていたのですが、見事失敗、この会社は倒産してしまいまして、初めて債権者会議なるものに出席した経験を思い出しました。でも最近その会社も世代が変わり元気な様子の情報を得ていますが、あの社長まだ元気だろうかと懐かしくなりました。
平城京への米献上行列で歌姫街道を歩いたことも思い出しますが、脱線しすぎますのでこの辺で止めときます。
枚方の桜新地の実家を書いて戴いてからのファンです。
もう少し枚方よりに走っていただければ…
峠の茶屋が在りましたのに…
最近は、「何もないでー」という言葉は禁句になりつつあります。どこにいっても何らかのものはある(笑-当たり前)ということに改めて気が付きました。
城陽が金箔の産地ということは知りませんでした。単純に京都市内かな等と思っていました。ありがとうございます。ここにある南京都高校、「ナンキン」と呼んで覚えやすかったのに、最近名前を変えました。覚えられません(爆)。学研都市、着実とは言い難いのですが、それらしきものが何となく出来ていってる感じです。
本当ですね。峠の茶屋、未だ行けていません。今度、田辺に行く用事のあったときは峠の茶屋に行きたいと思います。
京丹波ですけど、大学に入った頃自己紹介するとき、「京都は丹波の、、」と言うと、殆どが京都のをパスして「篠山か?」と言い返してきました。丹波は篠山だけとちゃうで~、と一生懸命説明したのを思い出します。京丹波、良いじゃないですか(^_^)京都を見せびらかしているのではなく、京都にも、、という意識もあるんではないかとも思います。その証として、丹波は兵庫県だけじゃねえ、丹波は京都も含むのよ~と京丹波を知って貰おうという動きがあります。まあ「丹波~篠山、山鹿の猿が、、、」あまりにも有名だったので、忘れたらあかんで~と言う意識でしょう。
同じ事は「西の鯖街道」という命名です。鯖街道といえば熊川宿や朽木をイメージされてしまうほどになりましたが、こっち、西も忘れたらあかんで、というところでしょう。
開港地神戸のバックグラウンドを広げるために丹波や摂津は分割されたそうですが、丹波に関しては大部分は京都府ですね。それでも結局デカンショ爺さん等(篠山市は別にありますが)に押し切られて新生丹波町は京丹波町を名乗ることになってしまった。その奥ゆかしさを評価して諒といたしましょう。
そういえば、亀岡も本来は亀山ですが、三重県の亀山ローソク市に遠慮して、そうなったのでしたね。なんか優しいなあと優しくない小生はそう思います(爆)。
京都の南部はほとんど未知の所で、gunkanatagoさんのブログが教科書です^^
愛宕山があんなに近くに見えるのですね。嵯峨野線から見るのと少しも変わらないなナ。
D大学が田辺に出来た初期のころ、ナイトコンサートに出向きました。まだ駅の回りも寂しく、山手?の真っ暗な中にグランドの照明だけが煌々と照らされて、「ここが同志社だゾー!」と導いてくれました。その後、身内のものが3年ばかり興戸に住んでいた関係で数回通いましたが、転居してからは全くご無沙汰です。
先日、大原野の花の寺(勝持寺)と大原野神社、その近辺を回ってきました。昔、何も知らずにハイヒールで山門からの急坂を登った痛みを思い出し苦笑していました。平日の参道で出会ったのはたった二人だけでした。西行桜の咲くころ再び訪れたいところです。
愛宕山。多少倍率を上げていますが、思ったよりも大きく高く見えました。この京田辺の住人となった人の実家の辺りも見えるやんけと思いました。愛宕の神は自分のお気に入りの人が圏外に出ることを許されないようです(爆)。
同志社大学、田辺に出来た当時は本当に書いておられる通りで、それだけに田辺に初めて行った学生はショックが大きかったみたいです。今も基本的にはスコーンと大学が見える様子は変わっていません。また、山城南部を御案内できればうれしいです。