大阪府高槻市の摂津峡の周辺は随分と宅地開発が進み、昔の状況を知らない人に「摂津耶馬渓」などというと、「どこがやねん。フン!」と鼻で笑われても仕方がない状態に陥っています。摂津峡の下の口に至る塚脇の集落なども新しい住宅や老人ホームなどが建ち並び、風前の灯というところ。そういう中にあって三好山といわれる芥川山城趾がほぼその全体を残しているのは、多分に摂津峡関係の方々の努力の賜かと思われます。この山が宅地開発されてしまったら摂津峡は本当に「終わり」になってしまいます。
高槻市のホームページを御覧いただくと一番わかりやすいのですが、この芥川山城は大変大きな規模の山城で、その山城がそっくりと山の中に残されています。奈良県の高取町の高取城跡などもそうなのですが、高取城が廃城になったのは明治になってから、芥川山城は16世紀後半には既に廃されていますから、高槻市という地勢から考えると全く驚嘆すべきことではと思います。近江を徘徊するとき、例えば永原城祉などがほぼそのままの形で残っているのを見て感動するのですが、畿内ではそういう嬉しい状態は極めて稀なことです。
上杉謙信や武田信玄、毛利元就など地方の戦国大名についてはその治績を顕彰しようという活動は盛んなのですが、畿内の武将については、なかなかそういう動きがないと最近読んだ本にも記されていました(同時に畿内の武将が地方の武将に劣るものではなく、荘園制の名残が色濃く残ったという土地支配に関する制限が畿内にはあったとのこと)が、高槻市には三好長慶を顕彰しようという方々がおられるようで、塚脇のバス停から三好山の頂上(本丸跡)まで案内の板が整備されています。ひとまず本丸へということならば塚脇から30分もあれば辿り着くことが出来ます。ただ、大手であるとか二の丸であるとかそういうものを確認しながら行こうとすると、なかなか本丸までは辿り着けないので城郭というもの自体に興味がある人と行くときには注意せねばなりません。
途中、竹林の中に幾つかの墓もあり、そのうちの一つに「道意之孫也」と読めるものがあります。その向かいの墓石は摩滅して全く読めないのですが、「道意」というのは松永久秀の道号でもあり、それにしては墓石は新しい感じもしますが、久秀がこの城を訪れたことはもう確実なので、あれやこれやと興味をそそられます。トップの写真は本丸跡で三好長慶を祀る祠があります。途中の案内板を見ていくだけで、「1553年三好長慶入城」ということは覚えてしまいます。ここと向かいの山の間の谷が摂津峡ですが、向かいの山の裏側は南平台という新興住宅地です。
本丸付近もよほどの好事家が訪れるだけで常時貸し切り状態ですが、松籟清々として爽快な風が吹き抜けていきます。この城は「城塞」として見た場合は、何度も落城を経験しているのですが、最終期には織田信長もこの城の陥落後に入城しています(JR高槻駅付近に別に芥川城跡があり、信長入城の城はこちらではという人もいます)。ここからドーンと摂津峡に下りてしまうこともできそうですが、今回はまだお目当てがあるので、もとの道を引き返します。
塚脇のバス停に戻る途中に塚脇1号墳なる古墳があり、石室が露出しています。
この古墳を見学した後、別の道標に沿って徘徊すると「服部連塚」、秦氏などにも関係が深い織物を専門とする氏族「服部部」の本願の地がどうもこの辺りであるようです。今やこの円墳は住宅地の中に取り残された形で存在します。その服部氏の氏神を祀るのが神服神社です。
近年、治安も非常に悪くなったといわれる高槻市ですが、山に沿った辺りはまだまだ昔の名残が多く残っています。この近辺では、昔は寒天作りも行われていて、聞力寺という寺でしたか、そこには寒天作りを始めた人の顕彰碑などもありますが、今これだけ自動車が往来すれば粉塵だらけの寒天になってしまうでしょうから、かつて寒天を干したであろう広場は古紙の回収場となってしまっています。
ここより摂津峡方面に向かうとまず賑やかなのが「美人の湯」なる保養施設、名前に釣られてしばらく眺めるのですが、ついに1名の美人も出てきませんでした。出てくるのはオッサンばかり、アナクロニズムに浸っている小生などは、その名前だけで自分が入ることは遠慮するし、恥ずかしいとも思うのですが、まあ何も考えていない人が多いようですし、その方が健全でもあるようです。
この界隈、飲み屋らしいものはあっても開いていないか潰れているかであります。やはりJR高槻か阪急高槻市駅周辺に戻らねばならないでしょう。阪急の駅の中に最近開店した「たちより屋」なる店でイカモノですがちょっと変わった酒を飲むことが出来ます。串カツもうまい。
(09年6月記)
高槻市のホームページを御覧いただくと一番わかりやすいのですが、この芥川山城は大変大きな規模の山城で、その山城がそっくりと山の中に残されています。奈良県の高取町の高取城跡などもそうなのですが、高取城が廃城になったのは明治になってから、芥川山城は16世紀後半には既に廃されていますから、高槻市という地勢から考えると全く驚嘆すべきことではと思います。近江を徘徊するとき、例えば永原城祉などがほぼそのままの形で残っているのを見て感動するのですが、畿内ではそういう嬉しい状態は極めて稀なことです。
上杉謙信や武田信玄、毛利元就など地方の戦国大名についてはその治績を顕彰しようという活動は盛んなのですが、畿内の武将については、なかなかそういう動きがないと最近読んだ本にも記されていました(同時に畿内の武将が地方の武将に劣るものではなく、荘園制の名残が色濃く残ったという土地支配に関する制限が畿内にはあったとのこと)が、高槻市には三好長慶を顕彰しようという方々がおられるようで、塚脇のバス停から三好山の頂上(本丸跡)まで案内の板が整備されています。ひとまず本丸へということならば塚脇から30分もあれば辿り着くことが出来ます。ただ、大手であるとか二の丸であるとかそういうものを確認しながら行こうとすると、なかなか本丸までは辿り着けないので城郭というもの自体に興味がある人と行くときには注意せねばなりません。
途中、竹林の中に幾つかの墓もあり、そのうちの一つに「道意之孫也」と読めるものがあります。その向かいの墓石は摩滅して全く読めないのですが、「道意」というのは松永久秀の道号でもあり、それにしては墓石は新しい感じもしますが、久秀がこの城を訪れたことはもう確実なので、あれやこれやと興味をそそられます。トップの写真は本丸跡で三好長慶を祀る祠があります。途中の案内板を見ていくだけで、「1553年三好長慶入城」ということは覚えてしまいます。ここと向かいの山の間の谷が摂津峡ですが、向かいの山の裏側は南平台という新興住宅地です。
本丸付近もよほどの好事家が訪れるだけで常時貸し切り状態ですが、松籟清々として爽快な風が吹き抜けていきます。この城は「城塞」として見た場合は、何度も落城を経験しているのですが、最終期には織田信長もこの城の陥落後に入城しています(JR高槻駅付近に別に芥川城跡があり、信長入城の城はこちらではという人もいます)。ここからドーンと摂津峡に下りてしまうこともできそうですが、今回はまだお目当てがあるので、もとの道を引き返します。
塚脇のバス停に戻る途中に塚脇1号墳なる古墳があり、石室が露出しています。
この古墳を見学した後、別の道標に沿って徘徊すると「服部連塚」、秦氏などにも関係が深い織物を専門とする氏族「服部部」の本願の地がどうもこの辺りであるようです。今やこの円墳は住宅地の中に取り残された形で存在します。その服部氏の氏神を祀るのが神服神社です。
近年、治安も非常に悪くなったといわれる高槻市ですが、山に沿った辺りはまだまだ昔の名残が多く残っています。この近辺では、昔は寒天作りも行われていて、聞力寺という寺でしたか、そこには寒天作りを始めた人の顕彰碑などもありますが、今これだけ自動車が往来すれば粉塵だらけの寒天になってしまうでしょうから、かつて寒天を干したであろう広場は古紙の回収場となってしまっています。
ここより摂津峡方面に向かうとまず賑やかなのが「美人の湯」なる保養施設、名前に釣られてしばらく眺めるのですが、ついに1名の美人も出てきませんでした。出てくるのはオッサンばかり、アナクロニズムに浸っている小生などは、その名前だけで自分が入ることは遠慮するし、恥ずかしいとも思うのですが、まあ何も考えていない人が多いようですし、その方が健全でもあるようです。
この界隈、飲み屋らしいものはあっても開いていないか潰れているかであります。やはりJR高槻か阪急高槻市駅周辺に戻らねばならないでしょう。阪急の駅の中に最近開店した「たちより屋」なる店でイカモノですがちょっと変わった酒を飲むことが出来ます。串カツもうまい。
(09年6月記)
芥川の名称は聞いて知っていましたが、実際の流れは見たかどうか定かではありません。どうも、塵芥の先入観があったようです。有名な摂津耶馬溪も、その名を聞くだけに終わっております。美人ナントかはあちこちにあって、京都にも名前負けのしている「美人座」というバーがありました。吊られて入るのが悪い・・・とも言えませんよネ。若かったのですから。
市内では、芥川は高槻市と富田の間を流れることになります。電車では幾たびも渡っておられたと思います。
炎天下のテクテクも、慣れてむしろ楽しまれているご様子、、、
今頃気がついて
これから暑さ厳しくなります。くれぐれも 御身お大切に。
暑さのご挨拶、いたみいります。かりんとう様もどうか御自愛下さい。
この辺りで割拠していた大名さん達は大変だったでしょうね。また歴史小説の主人公には殆ど登場してこなく、有名人の歴史の中に一部登場するだけでどうも縁が遠く感じます。
今思い出したのですがこの近くに車作という所がありますね。歩いていてここで牛車などが作られていたと案内板で読んだことがありました。ここもニュータウンがどんどん開発されていますが、ちょっと山へ入れば自然が残っていて散策するには素晴らしい住環境なのでしょうね。温泉もありますし。
私が大阪へ行き来するルートは、園部~川西の477が一番多く、続いて亀岡からこの高槻へもしくは茨木へのルートであります。6号線はダンプが多いですね。
477号線、周りの風景も随分と変わりました。川西市に出てきたところにある火打の皮工場などもすっかり無くなりました。あの辺りが浅草弾左右衛門の先祖の出身地だそうです。古くは源氏の兵器製造廠(鎧をおどす革ひもが要るということで)、前九年の戦いで源氏の武将が着用していた鎧兜はここで作られたのかも知れませんね。6号線、採石場だらけで日曜日以外はダンプ街道です。
すごく勉強になるので私もこちらにお邪魔しております。
先日はgunkanatagoさんに勧めていただいた多田銀山へ行ってきました。池田の酒屋へも寄りたいのですが電車で行くとなるとその日に帰れないのが悩みであります。