コンチキチンの音が鳴り出すと四条河原町から烏丸あたりには、できるだけ近づかぬようにしておるのですが、ちょいとよんどころのない用が出で来て、ただでさえ暑苦しい上にお囃子の音がさらに暑苦しさを増すところをぶらつきました。用はささと済み、さてどうすべえと考えたところ、この辺りをうろつくのは論外、ひとまず烏丸より西に避難しようと考え、烏丸通を西に渡り室町通まで来たところ、北に菊水鉾が見え、そのまま北上したところ、ちょいと上がり過ぎて北大路まで徘徊することとなりました。写真は組み立て中の菊水鉾の車輪です。
さてその前に、四条寺町に近い八坂神社の御旅の前を通り、しばらくいくと福寿園京都ビルがあります。以前は普通の事務服を着たおばちゃんが冷たい茶などを出してくれたものですが、今はえらい上品になって、着物のお姉さんがにっこりと微笑んでくれますが、小生のガラではないのでどうも落ち着かない。ここの1階のオブジェは長刀鉾の辻回しをイメージしたものということで、「ああ、これで巡行ももう見んでええわ。」というところです。いけばな作家ならではの発想、普通の美術家にはなかなかこういうものは難しいのではと思います。
御旅
さて、もとの室町通に戻り、菊水鉾より少し行くと鯉山でありますが、これは本当に組み立て中です。祭の間、この地域にすんでおられる方々が家宝の屏風などを見せて下さるのですが、町屋も随分と少なくなり、ずうーと以前と比べると寂しいものだと思いつついくと、創業270年とやらで270匹の鯉をデザインした反物を豪快に見せて下さるところがありました。わざわざ足場まで組んであります。「なかなかやるやんけ!」と申す処。
疫神を祀る八坂神社のお祭りである祇園祭、斯くまで盛大に斎き奉られる以上は、豚インフルに揺れた本年は今まで以上に神様に頑張ってもらわねばなりません。ところでこの界隈の店に多用されている「誉」の字と「仁」の字、中には二つ合わせて「誉仁」という店もあります。何か謂われがあるのだろうかと思いながら上りますが、祇園さん絡みはここまでです。
御池通を渡り、二条室町にさしかかると三井越後屋京都本店の跡が庭園となって保存されています。中にはお稲荷さんが勧請されていますが、これはなかなか良い手ですね。全くの無神論者や熱烈なイスラム教徒やキリスト教徒など一神教を奉ずる者を除けば、われわれの心の中には何か神社仏閣に対する尊敬の気持ちのようなものがある。「法事」等と聞くと逃げ回っている小生の心のどこかにもそういうものがある。という訳で単なる庭ならば三井不動産の今後の都合で潰されてしまうことも考えられますが、お稲荷さんがおられるとなるとこれは難しい。本日のなかなかやるやんけ!2は、これを作った当時の三井不動産関係者であります。
ここより丸太町までは、森某、望月某など画家のおっさんの寓居祉ばかりで、まあ興味のある人は良いのでしょうが小生などにとっては「ああさよか?」程度のものです。ただ、そういっておいてまたまた何から関心が生ずるかはわかりませんから、しっかりと記憶しておきましょう。
「なあんにも、おへんえー(何故か京言葉)」と言いながら丸太町をこえると平安女学院のシマに入っていきます。「おう、あった。すばらしい?」と思われたのが足利義輝と武衛陣跡です。武衛すなわち斯波氏の館跡に足利義輝が屋敷を構えたのですが、松永久秀と三好三人衆に暗殺されてしまいます。足利義輝の母も同時に焼け死んでいます。いま少し辺りを調べてみたい気持ちもあるのですが、何にせよ女学院の縄張りですから、不審者と見られぬうちに退散します。それにしても斯様な因縁の地がバテレンの手に渡っていることは少し残念ですが、それでも詳しい説明書きをボランティアで立てている平安女学院、本日のなかなかやるやんけ!3であります(聖アグネスの説明は蛇足)。今地図で見たら地名も武衛陣町というんですね。
しばらく上がると「清和院並びに土御門内裏跡」ときて、「おう、平安時代がきたぞ。」 となりましたが、後が続きません。
北上を続けます。今出川にさしかかるまでに富岡鐵齋の寓居祉があります。このオッサンぐらいは小生でも知っている。さらに今出川を渡ったところに室町第すなわち花の御所の石碑がありますが、遺構は何も残っていないようです。今出川を渡る前には有名な「本田みそ」があります。ここの何かモナカの皮のようなものに具が詰まったインスタント味噌汁はなかなか重宝です。えっ!本田みそと西京みそは同じ会社だったのか等は本当にどうでもいいことですね。この辺り、上京中学校の喚声が聞こえ、ブラスバンドの音も聞こえます。四条より歩いて明倫小学校や滋野中学校の亡骸を見てきた身には、「ああ生きてる」と嬉しい限りです。
上京中学校
本田みそ
寺の内通をこえると、ちょっと道がわかりにくくなります。地図も持たぬアホでありますから、しばらくは西隣の衣棚通に迷い込んでしまいましたが、これこそケガの功名、千代野御所なる尼門跡寺院を見つけました。何が嬉しいかというと崇敬する光厳天皇の皇女華林惠厳尼(宝鏡寺開山)が一時期住持をされていた寺だそうで、このところは光厳天皇に絡む何を見てもいとおしいのであります。この寺の名称は宝慈院です。日傘のおばちゃんに「ここは室町通とちゃいまっせ。」と指摘され、元に戻ります。
さて、ここより鞍馬口通り、紫明通をこえて北大路に出るまでは何というものもありません。「次は隣の衣棚通やな」と思いつつ北大路駅の近くで一杯やって、今度は賀茂川を下ります。北大路橋から北の眺め、北山も呼んでいます。青鷺の漁なども見ながら行くとすぐに出町柳、さらに下ることになります。
(09年7月記)
さてその前に、四条寺町に近い八坂神社の御旅の前を通り、しばらくいくと福寿園京都ビルがあります。以前は普通の事務服を着たおばちゃんが冷たい茶などを出してくれたものですが、今はえらい上品になって、着物のお姉さんがにっこりと微笑んでくれますが、小生のガラではないのでどうも落ち着かない。ここの1階のオブジェは長刀鉾の辻回しをイメージしたものということで、「ああ、これで巡行ももう見んでええわ。」というところです。いけばな作家ならではの発想、普通の美術家にはなかなかこういうものは難しいのではと思います。
御旅
さて、もとの室町通に戻り、菊水鉾より少し行くと鯉山でありますが、これは本当に組み立て中です。祭の間、この地域にすんでおられる方々が家宝の屏風などを見せて下さるのですが、町屋も随分と少なくなり、ずうーと以前と比べると寂しいものだと思いつついくと、創業270年とやらで270匹の鯉をデザインした反物を豪快に見せて下さるところがありました。わざわざ足場まで組んであります。「なかなかやるやんけ!」と申す処。
疫神を祀る八坂神社のお祭りである祇園祭、斯くまで盛大に斎き奉られる以上は、豚インフルに揺れた本年は今まで以上に神様に頑張ってもらわねばなりません。ところでこの界隈の店に多用されている「誉」の字と「仁」の字、中には二つ合わせて「誉仁」という店もあります。何か謂われがあるのだろうかと思いながら上りますが、祇園さん絡みはここまでです。
御池通を渡り、二条室町にさしかかると三井越後屋京都本店の跡が庭園となって保存されています。中にはお稲荷さんが勧請されていますが、これはなかなか良い手ですね。全くの無神論者や熱烈なイスラム教徒やキリスト教徒など一神教を奉ずる者を除けば、われわれの心の中には何か神社仏閣に対する尊敬の気持ちのようなものがある。「法事」等と聞くと逃げ回っている小生の心のどこかにもそういうものがある。という訳で単なる庭ならば三井不動産の今後の都合で潰されてしまうことも考えられますが、お稲荷さんがおられるとなるとこれは難しい。本日のなかなかやるやんけ!2は、これを作った当時の三井不動産関係者であります。
ここより丸太町までは、森某、望月某など画家のおっさんの寓居祉ばかりで、まあ興味のある人は良いのでしょうが小生などにとっては「ああさよか?」程度のものです。ただ、そういっておいてまたまた何から関心が生ずるかはわかりませんから、しっかりと記憶しておきましょう。
「なあんにも、おへんえー(何故か京言葉)」と言いながら丸太町をこえると平安女学院のシマに入っていきます。「おう、あった。すばらしい?」と思われたのが足利義輝と武衛陣跡です。武衛すなわち斯波氏の館跡に足利義輝が屋敷を構えたのですが、松永久秀と三好三人衆に暗殺されてしまいます。足利義輝の母も同時に焼け死んでいます。いま少し辺りを調べてみたい気持ちもあるのですが、何にせよ女学院の縄張りですから、不審者と見られぬうちに退散します。それにしても斯様な因縁の地がバテレンの手に渡っていることは少し残念ですが、それでも詳しい説明書きをボランティアで立てている平安女学院、本日のなかなかやるやんけ!3であります(聖アグネスの説明は蛇足)。今地図で見たら地名も武衛陣町というんですね。
しばらく上がると「清和院並びに土御門内裏跡」ときて、「おう、平安時代がきたぞ。」 となりましたが、後が続きません。
北上を続けます。今出川にさしかかるまでに富岡鐵齋の寓居祉があります。このオッサンぐらいは小生でも知っている。さらに今出川を渡ったところに室町第すなわち花の御所の石碑がありますが、遺構は何も残っていないようです。今出川を渡る前には有名な「本田みそ」があります。ここの何かモナカの皮のようなものに具が詰まったインスタント味噌汁はなかなか重宝です。えっ!本田みそと西京みそは同じ会社だったのか等は本当にどうでもいいことですね。この辺り、上京中学校の喚声が聞こえ、ブラスバンドの音も聞こえます。四条より歩いて明倫小学校や滋野中学校の亡骸を見てきた身には、「ああ生きてる」と嬉しい限りです。
上京中学校
本田みそ
寺の内通をこえると、ちょっと道がわかりにくくなります。地図も持たぬアホでありますから、しばらくは西隣の衣棚通に迷い込んでしまいましたが、これこそケガの功名、千代野御所なる尼門跡寺院を見つけました。何が嬉しいかというと崇敬する光厳天皇の皇女華林惠厳尼(宝鏡寺開山)が一時期住持をされていた寺だそうで、このところは光厳天皇に絡む何を見てもいとおしいのであります。この寺の名称は宝慈院です。日傘のおばちゃんに「ここは室町通とちゃいまっせ。」と指摘され、元に戻ります。
さて、ここより鞍馬口通り、紫明通をこえて北大路に出るまでは何というものもありません。「次は隣の衣棚通やな」と思いつつ北大路駅の近くで一杯やって、今度は賀茂川を下ります。北大路橋から北の眺め、北山も呼んでいます。青鷺の漁なども見ながら行くとすぐに出町柳、さらに下ることになります。
(09年7月記)
お勧めその1は鯉が270匹の反物ですか。実際に見れば大した物なのでしょう。これが鯉ではなくて、蟷螂だとか山伏だったら・・・。その2は、庭園内の稲荷との由。完全無神論者の私には、それが守り神になるかどうか判然としません。ビルの屋上には大抵神社の祠がありますが、これなど取り壊しなどで簡単に姿を消す有り様を何度も目撃しました。完成後には戻されるのでしょうが、更地や別の建造物に変化した場合は果たしてどうなったのか?と考えれば効果の程は、と考えてしまいます。別に私が心配することも不要なのでしょうが。
それと、画家(書道家でも)に八つ当たりしてはいけません。私の友人に上村松篁の次男坊主がおります。まぁ、長男の淳之氏は名が売れていますが(親父の絵とそっくりで)、友人は美大卒なものの、百貨店の宣伝部で着物の図案を描いていました。麻雀が好きな気の良い(勝負に弱い)男です。松園・松篁氏の家が、昔は市内のその辺りにありました。少し話が逸れました。
平安女学院の貢献度がその3との由。ここはやはり京都弁で、「あっ、ありましたわ。けっこうどすぇ」でしょう。武衛陣町は、ぶえいじんちょうと読むのですか。私も女子大エリアへは足を踏み入れたことは(余り)ありません。同志社女子大の方が美人が多い、と聞きますが、好みもありますし。
富岡鐵齋を好ましく感じて居られないようですが、彼は日本国中を徘徊(先輩?)して多くの作品を残したとのこと。中々迫力のある絵とは私のお粗末な印象ではあります。
本田味噌は江戸時代からの老舗だそうですが、一度も食したことはありません。西京味噌は名称からして別の場所の味噌に思えますが、買収されたのですかネ。ただ、この辺りは私の生家にやや近く、もし疎開していなければ滋野中学へ入学していました。もしそうなら、今や母校共々亡骸状態ですが。最終に近く光厳天皇に係わられて何よりでした。やはり日頃の善行の賜物でしょう。暑い最中をご苦労様でした。私は、涼しい所で冷たい物を頂戴しながら気楽に愉しませて頂きました。これも日頃のオコナイの齎す所以です(その筈です)。
平安女学院大・短大は今や高槻の南平台に移り、同女大は田辺の山奥に逼塞しています。今やどちらも京女の雅も失い、かといって田舎娘の健康美も持ち合わせていないのでは?などと言うと知り合いから袋だたきに遭いそうですから、道草様の仰るように好みの問題ということで。
本田みそは平日は開いています。何か懐かしい感じがしますので、是非一度足をお運び下さい。