南青山一丁目の思い出。
23歳頃に南青山に住んでいました。
家賃6万円の共同アパートでした。
風呂はなく1LDKで電話も大家さんの取り次ぎ。
ピンク電話でした。
赤坂消防署の近くでおまけに青山墓地がすぐ後ろという立地です。
原宿へは徒歩で通勤していました。
原宿でアルバイトを3軒掛け持ちし青山では綺麗なお姉さんがいるクラブでバーテンダーもしました。
とても忙しく働いていたので遊びに行く余裕は殆ど有りませんでした。
朝から教員会館で掃除のバイト。
シャワーを浴びた後夕方から
原宿の養老の滝で11時までバイトその後ラ・フォーレの斜め向かいのレンガのビル6階で焼肉屋のバイトを朝まで……。
焼肉屋のバイトが、無いときは青山でクラブのバーテンダー。
でも時々カラオケスナックへ行きデビューしたての鶴見辰吾とアリスのチャンピオンを歌った思い出があります。
キラー通りの洋風居酒屋タロンで良くご飯を食べました。
アトリエオズの社長さんに気に入られ奥様とベルコモンズの下にあったイタリア料理のサバティーニへ連れて行ってもらったりツインタワーのレストランなども連れて行ってもらいました。
モデルをやっていてちょい役でテレビに出たり新聞の広告などの仕事をしながら芸能界を目指していた若かりし日のミスター八丈島はバーテンダーのバイトの時に知り合ったテレビ朝日の制作会社社長さんの紹介でテレビ朝日のプロデューサーの皇さんに会わせてもらいましたがあっさり断られた苦い思い出もあります。
タロンでは松山バレエ団の森下洋子さんと知り合えてバレエに誘われましたがバイトが忙しくバレエに興味もなく森下さんがそんなに有名な方とは存じあげず、松山バレエ団に行くこともなくせっかくのお誘いのチャンスを自ら潰してしまいました。
日本人として始めてパリのオペラ座で踊った有名な方であったとは後に知ることになります。
そしてこれも後から知った事なのですが、森下洋子さんと誕生日が一緒だったのです。
何かの導きでお相手巻きた方と何かしらの共通点があった事など知らないということは反面恐ろしいということなのだと後から悟りました。
養老乃瀧の目の前はペニーレインです。
関根勤と小堺一機がネタを作り観客の前でコントしていた時です。
黒子とグレコでテレビに出始めた頃でした。
青山は物価が高く
買い物も大変でした。
外食も高いので裏通りの中華屋さんとか安い店で食べる事が多かったたです。
青山のピーコックなどで買い物は出来ませんでした。
芸能人とかお金持ちが買い物するところです。
コンビニなど無い時代で
赤坂も六本木も何もかも高く
焼肉屋のバイトで出る賄いが俺の体の栄養源でした。
青山会館の従業員食堂は安くて美味しくボリュームもあり毎日食べました。
当時300円の回数券だった記憶が有ります。
朝ご飯は食べられず昼は社食、夜は賄い。
足りない分は外食と言う生活でした。
青山の近くに住む友達はなく飯食わせろ〜!は友達に言われていました。
有名なとんかつ屋とか串揚げ屋とかは店の人やクラブのマスターに連れて行ってもらいました。
麻布や六本木にも食べに連れて行ってくれてとても楽しいひとときでした。
明治神宮に紅白が終わったアイドルの子と初詣に行ったり、仕事中に逆ナンパされた女の子とかお姉さんとはワンナイト。
モテたけどそんなにモテたとは本人思って無くそんなもんかな?程度です。
人と比べたことはないので皆そうなのかな?と思っていました。
青山時代は後半には渋谷とか新宿にもバイトに出かけて居酒屋とか炉端焼きとかいろんな店を渡り歩きました。
26歳で八丈島へ移り住むまではその後渋谷に住むまで長野の軽井沢を中心にペンションの雇われオーナーをしていました。
7軒ベンションを営業しました。
栃木の那須御用邸の入り口一軒茶屋では原宿のヘアサロンのスタッフが遊びに来てくれて芝生の庭で髪の毛カットしてくれました🎵
青山から渋谷、そして新宿まで仕事で駆け回っているうちに趣味でサーフィンをしていた千葉の館山でペンションをやるキッカケを作ってくれたのがマーメイドの、高橋保さんでした。
それから2年間あちこちペンションを廻り再び渋谷に舞い戻りました。
そしてレストランのプロデュースを手掛けたのが地中海料理レストラン バリエでした。
芸能人も多かったです。
青山は気品のある街で
オシャレです。
フリーターが歩いていると不釣り合いで早く引っ越したいと何時も思っていました。
深夜原宿から歩いて帰る途中の立ち食いそば屋の味が蘇ってきました。
コロッケ蕎麦と昆布蕎麦が美味しかったなあ〜?!
青山は立ち食い蕎麦の思い出が強いです……(笑)