神功皇后は移動していたのでは?・・・の続きです。
福岡空港の東側に、800mの高さで続く三郡連山を背景にして、応神天皇生誕の地と云われる宇美八幡宮あります。
そこから南へ小さな峠など越えて山際の道を南下していきますと、太宰府天満宮の裏手を抜けて筑紫野市山家(やまえ)に出ます。ここで東西の道(後の長崎街道)とクロスするのですが、そのまま南下していくと、筑前町弥永という地に出ます・・・この地に神功皇后伝説があるのです。・・・この弥永という位置は、西は佐賀県の佐賀平野から福岡の筑後平野の広がりの、最東端の山際にあります。すなわち弥永から西方はすべて平野が続き、各所に稲作を行っていただろう集落が点在していたのです。
その弥永に伝わる神功皇后伝説は・・・朝鮮への出兵のときに兵(当時は別の名でしょうが)が大いに不足していた。それでこの地に社を建てたところ僅かの日数で兵が集まった・・・という伝説です。私が思うに各集落から馳せ参じたのではと思います。それだけ多くの集落があって、稲作もありますから人も多く住んでいたのでしょうね。
その時に建てた社は最古の神社だったのではと言われている。今はその小高い山のふもとにはんもりとした森となり、大己貴神社(おおなむちじんじゃ)として大黒主神(大黒様)を祀ってあります。時々、秋月へ出かけるときにお参りしますが、ふだんは静かなものです。
では何処に住んでいたのか?・・・わからないですね(笑)当時は都を構えて統治するようなクニでは無かったのではないかと思いますので。
今夜はこのあたりで・・・