それは簡単には言ってはいけない。
影がなぜ高いのか?
冬の影は長いというのが当たり前である。
塔は建物としてみるととても美しいが、その裏にはキリシタン殉教者のことを忘れて見ていては失礼というか、彼らの歴史をまったく無視をしているのと同じなのだ。
尖塔はいかに先を尖らせていても、それは信者の心の向く先を示しているのである。
冬の日差しにやや影になった塔に殉教の心を見なければならない。
そうでないとただ建築物としての美を愛でることで済ましてしまう。
美しさの裏側は時として民の悲惨な心根を表わす。
悲惨さに目を閉じていると、美しいものに影があることを気づかない。
そのことを現すのに、17文字に当てはまる言葉を探すのが作句と言えよう。
私は直截な言葉で情景を表すことを避けねばならないと思っている。
あをあをと山 ぎらぎらと鮎の川
という句を先ほど知った。
青陵のころ、陽を反射する川を読んだのであろうことはすぐにわかる。
その中に居るであろう生き物を詠んで、自らの生を詠っている句だと思う。
切れはどこにあるのかと言えば、山で切れるのであろう。
久女の・・・
谺して山ほととぎすほしいまま
を思い出す。この句はどこで切れているのか。
やはり・・・谺して山、とここで切れている。
その山をホトトギスの声が山の高みから谷の深みへと渡っているのである。
久女は、情景として谺している声を読んでいる。
その声から様々な情景を詠む者に与えている。
この句を谺して、で切ってみると「山ほととぎす」という特殊なホトトギスでもいるのか?のように思う。
下五の、ほしいまま・・・ここにまで辿り着くのにかなりな想像を読者に抱かせる。
二句を比べてみると、一方は情景を油絵で切り取り。
一方は水彩のすこし滲みを見せながら切り取ったものと言えよう。
句の世界も変わりつつあるのかな?時代かな?
ぼちぼちブログも閉鎖しようか、日々忙しいし。
次の夏はホトトギスと会いに英彦山へ登ろうか。
ヒメドコロという珍しい花に出会うためにも。
年末年始がとてもじゃないほど忙しくなるので、今月で終わりにしよう。
ごめんね、yumiさん。
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