一句鑑賞

三年日記

昨年のような37~8℃にはならないようなのでとりあえず安心。でも33℃位ですね。どうもお天気情報ぐらいしか頭に浮かばない今日この頃です。今夜もウォーキングしましたがいい汗が出ました。

 

実は広辞苑を書棚から引っ張り出そうと思っております・・・PCの左手置いて頁を捲り言葉を選ぶ作業をしないといけません。もちろん拡大鏡が要りますが。

俳句の、漢字はこれでいいのか送り仮名はどうなる、終止形だと語尾はどうなる・・・などなどと頭が混乱します。こんな時は広辞苑!で昔やって居りましたので復活させないといけませんね。

PCサイトで利用できないかと考えていたのですが、やはりページを捲る作業をしながら言葉に辿り着くっていうのが、言葉の持つ意味の広がりなども得ることに繋がるかもしれません。その時はPCも畳んでノートに手書きで俳句となります。最初のやり方に戻るわけで、PCは記録だけです。

 

実は断捨離の中で発見がありました。父の三年日記が2冊出て来まして・・・m(__)m知ってはいましたが、数ページ読みますと、家族のことなど見事に書いておりました。父は年老いてから目に障害がでまして・・・右目の視野の真ん中辺りが黒い空間としか捉えておりませんでした。病名は網膜変性症です、意外と60代から出て多いそうですね。で、その日記は見えないということで手が覚えた字ですが、これが見事にきれいに読めるのです。

片付けの中で、父の旧制中学・・・福岡縣宗像中学校ですが・・・立派な卒業アルバムがあります。頁を捲ると、教師さんがたの集合写真にはカバー紙にひとりひとりのニックネームを書いていますし、同窓生のひとりひとりの写真には印象など短い言葉で書いております。その字体が父の頑丈な体と顔の印象からとは全く違うので驚きました。自分のところには、篭球、角力などを・・と書いてます。

もう一冊のアルバムは・・・豊橋陸軍豫備士官学校の卒業記念アルバムです。これは資料としての価値はあると思いますが、どこかに寄贈といってもどこへ?と考えがまとまりませんね。

この豫備士官学校を出て福岡の連帯に配属され、平和台球場があったところに練兵場があって演習などしていたと申しておりました。当時は少尉に準ずる階級だったそうです。馬に乗って兵を率いて今のわが家の前を通っていたそうで、家族などが立派やねーということで、母との縁組が行われました。父は婿養子としてわが家に来ました。

練兵場に慰問というのでしょうか、ご馳走を作って重箱に詰め面会に行っていたそうです。

北部九州には演習場が複数あったでしょうが、由布院にも行ったと話しておりました・・・自分は将校なので民家に一人だけで宿泊できたとか話しておりました。

戦場へ出兵の時、父は母に一言も行先なども告げずに家を出ました。母は博多駅の一つ上り駅、吉塚駅に行きまして待っておりますと、父の部隊が乗った列車が出ていくところだったそうで、柱の蔭から見送ったと言います。後年、私に言ったことですが、何にも言わんで出て行ったとよ!

 

母も大学ノートといえば大袈裟ですが簡易なものに云十冊ほどありましたが、これはノートは私が買ってきておりましたので・・・母の眼と心の記録ですね。

断捨離は歴史を新たにもしてくれます。

私の歴史?軽いので・・・(-_-;)

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