35の時、と言う事は「30年」も昔。実は、今も住んで居る場所の直ぐ裏の通りにあった「ルース」さん宅に下宿させて貰って居た。25の頃から毎年「ダイビング」でフィリピンに来ていた頃のマニラ常宿(ユースホステル)のマネージャーが彼女だった。下宿代、月「1,000ペソ」で3食付きは、当時でも激安。
★サンヨートラベル(中華系)での歩合仕事が最初、もちろんサラリーは無く結果次第。
★ターゲットは、日本人をバタンガスのリゾートに紹介。
★日本人会が宣伝場。
・掲示板
・月会誌への広告掲載
日本人会の広報担当者が同郷者だったのがラッキーだった。携帯が無い時代なので、秘書代行サービスを利用し、これが上手く機能「サンヨートラベル」の秘書がコンニチワ、女性が電話に出るのは信用上もポイントアップ。しかも、名刺には堂々と「Japan section Manager」嘘では無かったけど、、、時効と言う事で^^;。
殆どは、ダイビング絡み(講習、ファンダイブ、体験)、折良く「彼女が水着に着替えたら」が日本で大ヒット(ダイバー熱が一気に高まった)。
リゾート専属インストラクターからアシスタントを頼まれる事も増えて来た。やっぱ俺のスキルが必要なんかと思ったが実際は単に通訳が欲しかっただけ😢。
土方潜水士がメインの経験ながら、レクリエーションに行く気になり「真面目」にMr.ペンマン(英国人)に弟子入り。
独自に(流石もぐり)ダイビングツアー開始(良く当局に捕まらなかったナ悪運?)一番多かったのは「ドゥマゲッティ」のアポ島、スミロン島、ミンドロ島、イロイロ島、セブも時々。
それから6年後に、古巣のバタンガス州に「海の家」をスタート。銭なしコネなしの実写版、義理のお袋さんから借りたのが元手の全て(フィリピン人から借りる日本人も少ない)。リース地にテント泊、メニューはカップラーメンとか、有り得ないスタート。
第一次ステージ終了。https://twitter.com/SummerCruise88
写真は、PAL のポスターにも出て来る「スミロン島」