絵馬修著『羊の怒る時 関東大震災の三日間』読書会で出た意見・感想の備忘録です(太字にしたのは私)。関東大震災で起こった朝鮮人の虐殺について扱った作品で、
「罪のない人が逃れないようのない暴力で殺されてしまう、普通の人が愚かというだけでそれに加担してしまうという史実が本当に苦手。なのでそれで読めなかった」
という方もいらっしゃったように、心理的にしんどい場面の多い作品でした。
他方、「集団心理の怖さに関しては皆さんから意見がでたため、ちょっと別の視点からの感想を」ということで以降は同じ方のコメントです。
●小説の面白さはストーリーだけではない
「ストーリーを楽しむ小説というより小説の面白さはそこだけではないというのが、すごくよくわかる作品。
ストーリーとしては、震災が起きて1日目から3日目の人の動きを書いているだけなので、そもそも面白さは少ないが、『動いた中でどういう変化が訪れるのか、どのタイミングでどういう動きが生じるのか』がすごく面白かった。
あと『距離と情報のスピードが今とは全然違う』ところ。
これは今で言うと東京都心部で起きている話だが、この作家が住んでいる代々木、明治神宮の近辺は、大正時代はいわゆる東京ではなかった、郊外どころではない田舎であることが読み取れる。
今で言う小石川とか浅草、銀座方面に行くことが当時の『東京に行く』という感覚。その距離感の違いがすごく面白い。当然、電車が止まっているから徒歩で移動するが、このくらい歩くと疲れ方がこのくらいで、このくらいの距離だとすごい遠征した感じになるのか、とわかる。なのでそうした『都市小説』としてとても面白く読んだ。
●今と違う、情報の伝わりかたのスピード
それと『情報のスピード』が今と全然違う。1日目は、地面が揺れて建物が壊れてどうしようというところで終わってるが、2日目からの、朝鮮人が暴動を起こしているという噂の伝わり方のスピードが、SNSがあるわけでもないのに思いのほか早い。
ただ、実際どういう災害でどんな被害が起きているのか、という情報はなかなか来ない。代々木あたりまでは煙と赤い空で火事になっているとわかっても、どのくらいの規模なのかまではわからない。わかることとわからないことの違い、差異がすごい。その当時のスピード感がわかって面白かった。
なので逆に、朝鮮人が暴動を起こしているという情報が定説になっていくスピードが速すぎて、デマである可能性が出てくるわけだが、その過程にいるとそこまでは思いは至らない。それに、この絵馬さんの投影と思われる作家も、偏見のある人ではないはずなのに、朝鮮人が暴動を起こした聞くと『ああそうなんだ』って思ってしまうくらいには色眼鏡がある。多分差別している意識もないくらいにそうした意識が定着しているから、暴動のデマがまことしやかに広がってしまう、という構造が背景にあるのではないか。
今ならまたちょっと違う形で絶対に同じようなことが起きるのだろう。常にうっすら差別をしている社会であるところが非常に辛い。
●地方から米を背負って…「それまたやりますよ」って思っちゃう
これは大正時代で、このとき東京は一度壊滅状態になる。著者は『アジア人同士で助け合ってまた文化を起こしていこう』みたいなことをどこかで書いているが、その挙句の果てが太平洋戦争。
本作の中盤の方でお兄さんが地方からお米を背負ってきてくれる。『このご時世に米を持って歩いてくることになると思わなかった』と言うのだが、それまたやりますよって思っちゃう。本当に人間というのは学ばないことがよくわかる。この後、割と数年ごとに間を置かずそういう事態になるという、しょうもない国民性があるなと、ちょっと辛い気持ちになった。
●副次的なものが引き起こす、大きな被害
関東大震災は、地震で建物が壊れた以上に火事による被害がすごかったことが改めてよくわかる。東日本大震災の時は、揺れそのものよりも津波と原発の被害が甚大だったが、この時は火災だった。
地震そのものというよりは、そこから発生する副次的なものが引き起こす被害が大きいケースが、日本の場合はけっこうあると気づく。なので、震災対策というのは厳密に言うと揺れ対策だけではない、というすごく説得力がある作品だと思う。
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いろいろと端折りつつ、個々の感想は以上です。その後もいろいろ話はでましたが。
私が「ふせんをどこに貼ったか」うかがったとき、終盤287ページの下記の文章が挙がりました。主人公が洋行帰りの友人に対し、震災は自然の力だから仕方ないと前置きし
「しかし朝鮮人に関する問題は全然我々の無智と偏見とから生じたことで、人道の上から言ったら、震災なぞよりもこの方が遥かに大事件であり、大問題であると言わなければならないと思う。」
と力強く主張している場面です。それが言いたくてこの本を書いたんだろうと思う言葉でしたね。