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花日和 Hana-biyori

小説『国境の南 太陽の西』聴き終わり。

「国境の南、太陽の西」
村上春樹(講談社/1995年10月発行)

Audibleにて。宮沢氷魚の抑制の効いた朗読がとてもよかった。

青山でジャズバーを経営する37歳の始(はじめ)が、自身が12歳からの女性との関わりを独白のような形で描いている。

仕事にも愛する妻と2人の娘にも恵まれ、なんの不足もない生活のはずだったが、ある日とつぜん小学6年生の頃に密かに恋心を抱いていた島本さんが現れ…。


最初は、ひとりっ子の「ぼく」が、ひとりっ子が浴びる偏見について語る部分に引き込まれた。うちの子もひとりっ子なもんで。

登場する女性は、12歳でほのかに心を通わせた島本さん、高校生のころ初めて付き合ったイズミ、肉欲のままに関係を持ったイズミの従姉妹、愛する妻である有紀子。他に名前の出てこないちょっとしたセフレも何人か。もっと言えばまだ幼い2人の娘も女性だ。

この誰をも、程度の差や本人が気付いているかも別として、傷付け続けている男の話だ。大まかなエピソードだけを振り返ると、身勝手な浮気男の女性遍歴で、その心理がわかる話だなあ、となる。

しかし小説としてはそういう軽薄でしょうもないイメージは不思議と感じさせない。

それは、ひとりっ子で、自分一人であれこれ考えを巡らせる性分であるこの人の、心理描写が大半を占めているからだろう。誰かを傷付けると同時に自分も深く“損ない”続けているとわかる心の内が、巧みな表現で微細に描かれている。それに共感は出来なくても、この人はそうなんだといつの間にか聴き入ってしまう。

何度も「そうしないわけにはいかなかった」という言葉が出てくるのだが、つまり自分の行動は何かに操られるように不可避!という言い訳のようにも感じる。だが、物語に没入している間は、この人が何か特別な存在であるがゆえに、特定の女性に「吸引力」を感じていると思わせられてしまう。

この作品に触れて、だから浮気や不倫はダメだとか言うのは野暮な話だ。けれどそういう風に思わされているのが既になにか術中にハマっているような気もした。

ところで「国境の南、太陽の西」というタイトルをなかなか覚えられなかったけれど、ナット・キング・コールの歌のフレーズで、始と島本さんが12歳のときよく聴いたレコードの話がでてきてようやく覚えられた。

大きく言えばこの世の果て、みたいなイメージだろうか。ふたりはこの言葉に、ここではない何処かを投影し、想像を膨らませていたようだ。いい雰囲気の思い出話だった。

 
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