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かたちにあらわれないやさしさについて

夫の甥の結婚式に

夫婦で出席しました。

遠方にいて、冠婚葬祭でもなければ

ともに過ごすことのない夫の親族と

しばらくぶりの再会でした。

 

たいへん恥ずかしい話になるのですが

私は、結婚したばかりのころ

夫のきょうだいたちを激しく嫌い

怒りをあらわにいたしました。 

 

長男の嫁としての母の怒りや愚痴、嘆きを

しょっちゅう聞いていた私は

母の気持ちを、我がことのように感じ

母の助けになりたい

母を喜ばせたいと思っていましたから

私は、父親のきょうだいたちが

家にやってくると

幼い子どもとは思えないようなふるまいをして

同い年のいとこに対しても

自分のこどもらしい思いを否定して

自分を卑下したようなご機嫌とりをしておりました。

 

 

そのことに気づくことができなかった私は

夫と結婚した時に

自分が育つ家庭で学びとった

親戚づきあいをやったのです。

その根底には

嫁としての私を認めさせたい

褒められたい願望がありました。

ところが

夫の親族には

わざとらしい丁寧さや気遣いは

通用しませんでした。

私の中の認められない寂しさは

夫の親族への怒りとなって

大爆発をいたしました。

 

 

 

その後、夫に怒りをぶつけながらも

私は、少しずつ気づきはじめました。

自分は、すごく良い嫁をやっていると思っていたことが

実は、かたちにとらわれているだけで

こころがないことを知りました。

夫のおかげで

かたちに表さない

やさしさのあることを知りました。

 

 

それがわかった時に

私は、夫の姉に宛てて

自分のこころを正直に綴った手紙を書きました。

そして

自分のした失礼なふるまいの数々をお詫びしました。

 

それから10年以上の歳月が流れ

母が亡くなったり

娘が結婚したりで

再会の機会が増えました。

 

そんな時

夫の親族がこんな自分のことを受け入れ

赦してくれている大きなやさしさを感じます。

 

 

人にやさしくなれるのは

自分が、いかにやさしさのない人間だとわかった時だそうです。

 

私の求めていたやさしさは・・・

私の知っていたやさしさは・・・

かたちにあらわれた

わざとらしいやさしさでした。

 

目には見えない

かたちに表れない

みんなにすぐに気づかれない

やさしさがあるのですね。

 

 

 

 

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