小豆をことこと煮て、おはぎをつくりました。
お彼岸には必ず母がおはぎをつくりました。
私が子どものころの母は、長男の嫁として
また、勝気で負けず嫌いな性格もあって
ゆっくりのんびり子育てする余裕などありません。
ひたすら母の関心は、同居している舅姑や
時々訪ねて来る小姑など親せきの方へ向いておりました。
幼い私が、手伝いを望んでも
足手まといでしかなかったのです。
いまなら、母の辛い立場にじゅうぶん共感できますが
当時の私は、「さびしい子」でした。
母自身も「さびしい子」で育ち
まわりの評価に、愛を求めておりました。
「よくできる嫁」の評価は
母自身の「さびしさ」を埋めるために必要なものでした。
しかし、母の願いは、簡単には報われません。
父の家族もそれぞれに
自身の「さびしさ」を埋めることしか関心のない人たちでした。
報われない母の思いをぶつける相手は、幼い私しかおりません。
「おまえは、なんて不器用な子なの」
「おまえは、なんてわがままな子なの」と
ことあるごとに母は、私に言い続けました。
そう言葉にしなければ、
母自身の身が持たなかったのでしょう。
私が結婚をして、親元を離れるようになり、その後
娘が中学生になった時に、2世帯の同居が始まりました。
母は、何かにつけてよくおはぎをつくっては、届けてくれました。
私にとって、おはぎは、懐かしい母の味です。
* * * * *
自己無価値観
自己愛性パーソナリティー障害 など
カウンセラーとしての学びは、
私自身の苦しさから楽になるための学びでした。
60歳を過ぎたいま
己の未熟さを認め
それを
やさしさを持って受け入れられるようになったいま
ようやく母の深い愛情を
素直に感じるられるようになりました。

つぶやき日記
