here and now

自分を見いだすことの大切さ。

自分に死ぬことの続きです。

 

私は、5歳の時から

自分に死んでおりました。

子どもらしいわがまま、自己中心的な思いには

ずっとふたをしていました。

 

それは

両親と祖父母

周りの大人たちの愛情が欲しかったからです。

 

父は、私をかわいがったけれど

私が自分の意思で好きなことを望むことは許しませんでした。

子どものわがまま(私の欲求)は、悪いことと諭しました。

父は、私が悪いこと(自分の欲求を通そうとすること)をすれば

「感化院」へ入れると言いました。

 

5歳の時に、通ったキリスト教の幼稚園で、

司祭様の「罪について」のお話に

ここが、父の言っていた「かんかいん」という所なのだと

幼い子どもは、思いました。

私は、悪い子だからここへ通うことになったのだと。

 

母は、祖父母たちに聞こえるところで

私が、母に自分の気持ちをわかって欲しいと

泣いて訴えることを、極端に嫌いました。

子どもをしつけられない嫁と思われたくなかったからです。

私が母の言うことを聞かないのなら、

「おまえを置いて、この家を出て行く」と言いました。

そんなことはしないでくれと、また大きな声で泣きわめくと

母は、私の首を絞め、「おまえを殺して、自分も死ぬ」と言いました。

 

幼稚園での救いは

罪の悔い改めをすれば

赦していただける

私は愛されている

と教えていただいたことです。

そして、

「私は神様に選ばれた子ども」

と言われて、私は、他の子とは違うんだと

ひとりよがりの自信を持って、

どんなに一人ぼっちで寂しくても

私は、耐えることができました。

 

ただし・・・

その後の小学校でも中学校でも高校でも短大でも

私は、自分の意見が素直に表現できない人になりました。

そして、怒りの感情も悲しみの感情も喜びの感情も

友達に見せられない人になりました。

 

 

私は5歳児で、すでに自分に死ぬことはできたけれど・・・。

そこで、成長が止まってしまったから・・・

5歳児のままおとなになってしまいました。

 

人からの愛が欲しくて、死んではなりません!

 

「わたしたちは自分に死ぬことによって自分を見いだし、

自分自身に死ぬことによって

永遠のいのちをいただくのですから。」

 

何のために、私は死ぬのか?です。

特定の人の愛が欲しくて、死んではなりませぬ。 

 

 

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