Highway XXX

多数派と少数派

この世の中は多数派(マジョリティ)と少数派(マイノリティ)に分けることができ、マイノリティの考えは(特に日本では)圧殺される傾向にある(らしい)。らしい、というのはこの考えは僕が高校時代よく読んでいた中島義道のものだからだ。中島義道の考えは「うるさい日本の私」という本を読めば大体分かる。僕は彼の本をほとんど読んでいるが、それらにおいて、根幹に見られるのが上記の考え方であり、中島義道の考えていることは「うるさい日本の私」を読むことで楽しく(?)理解することができると思う。なぜ楽しく、と書いたかはすでに読んでいる方なら分かるかもしれない。とにかく、感受性におけるマジョリティとマイノリティが分かり合えるということは少なく、大体において、マイノリティはマジョリティに合わせて生きていくしかなく、マジョリティはマイノリティの生き方や感性を理解しない傾向にあるようだ。中島義道はセクハラを例に出して解説している。一昔前はセクハラはそれを訴えたとしても相手にされないものであった。というより、セクハラという概念が社会に浸透していなかったと言ってもよい。しかし、セクハラという概念が社会にすっかり浸透し、それにより精神的被害を被る女性の存在が認知されている現在においては、女性はセクハラによる被害を声高に訴えてよく、その訴えは社会的に受け入れられやすいものとなっている。このように、現在多くの人々が理解しやすいと考えている感性(この場合はセクハラを精神的被害として感じるということ)でさえ、過去にはそれがマイノリティの感性であったがために、その感性をもつ人は多くの人々には理解されずに一人で悩むしかないという構造があるのだ。多くの人々に理解されやすい苦しみと、理解されにくい苦しみがある。前者はそれがマジョリティに属する感性であるがゆえに、理解され、解決口も見つかるかもしれない。しかし後者は、それを訴えること自体理解されにくく、わがままとみなされがちである。そのため、我慢するしかないのだ。だが、このことは人間として生きているならば誰でも感じることなのではないだろうか。本当の意味で全く同じ感性を持つ人などいるわけはなく、人間同士分かり合うということなのは不可能なのだから…。そのような社会の理不尽さを噛み締めつつ、俗世間を渡ってゆくためには結局前向きに生きてゆくしかないのだろう。そう自分が考えるとき、そうではない、前向きに生きてゆけない人の生き方もそれはそれとして頭から否定しないことも、大切なことなのかもしれない。

中島義道「うるさい日本の私」

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「思想」カテゴリーもっと見る