さて、今回は性善説と性悪説をダシにつかって、僕の思想(?)を述べてみようと思う。
ここでは、「性善説」、「性悪説」という言葉を本来の意味というよりは、むしろそれぞれの人間の本性が善であるのか悪であるのかという、より一般に浸透していそうな意味として使いたい。
そのように使う方が話が進め易いので…。
では本題へ。
すでに「性善説と性悪説」の記事においても述べたように、何かの法則性を人間の性質に見出そうとするのは馬鹿馬鹿しいことである。
それは、人間の性質に関して、「正しい」と普遍的に述べられることは全くない、ということでもある。
色々な場合に応じて人間は行動しているのであり、いつも決まったことを考えたり、決まった行動をしたりするような人はいようはずもない。いたらそれは機械のようなものだ。
僕はどちらかというと「性善説」を信じるが、これはどんな人間でもある程度自分が嫌なことをしていると考えてしまうことはあっても常に嫌なことをしようとは思わないのではないかという勝手な僕の考えであり、実際極限的な局面において人が社会的に「良い」とされる行動をするかどうかは分からないだろう。
しかしながら、たとえそうでも、やはり自分を全体として嫌な人間だと考えていきていくことのできるほど神経の図太い人はあまりいないのではないかと僕は思う。
どこかで相手に対する同情・思いやりみたいなものを感じることは必ずあるだろう。
少なくとも僕の見てきた人は、僕にとって嫌な部分が多少あったとしても他の場面ではいい人であったりするもので、つまり「嫌な人」というのは「自分にとって嫌な人」でありその人は実は「別の誰かにとっていい人」である場合の方が圧倒的に多いのではないかということだ。
誰かについて理解したつもりでも、それは結局その人の一部でしかないのであり、そのすべてを理解できているわけではないのだろう。
だがしかし、自分に見えているその部分は紛れもなくその人の一面なのであり、間違っている、とは到底いえない。
このようなことは人間以外についても当然いえることであろう(このようなことを説明する際には普通は人間以外の物についての説明から人間の説明に入りそうなものであるが)。
つまり、どんなものでも見方を変えれば全く違う面が見えてくるということだ。
さて、このようなことを踏まえた上で、今回の副題である「正しさ」とは何か、ということについて語っていくことにしよう。
ただ、真に哲学的な事柄にまで話を持っていくことは僕には不可能なのであくまで僕の考えということであるが。
基本的に自分が「正しい」と思うことに従って行動している、または「正しい」ものの見方ができている…などと胸を張って言える人がいないであろうことはおそらく当然のことであろうが、どのような行動・見方をしようが、最後は自分を正当化したうえで生活していくことが多いのではないだろうか。
例えば、「勉強はしなくてはならないけれど少し休む。これは部活で疲れているから体を休める上でも仕方がないことだ。」など、「あの人をいじめるのはかわいそうだ。でも、それをしなければ自分がいじめられる。これは仕方がない。」などという風に。
このような時、僕たちは自分が倫理的・社会的に(学校的に、と言い換えてもいいかもしれない)「正しい」とされる行動をするべきである、と感じながらも、それをできない事情を作り出し、できない自分を正当化しているのである。そして、この自己を正当化する理論も「間違っている」ということはできず、それは時に「正しい」といえることすらあるのだ。
つまり、「正しさ」と対をなすものは「間違い」ではなく別の「正しさ」なのである。何かについて「正しい」と表現することがそもそもの間違いであり、それは「間違っていない」ということにすぎないものなのかもしれない。
このようにして考えていくと善・悪についての基準もなにも「正しい」といえることはないことが分かる。
ここで結局もとの話に戻ってしまったようであるが…。
自分の中の「正しさ」が他の人にとっては、他の面からみれば「間違い」であることもありうるということはやはり念頭において行動すべきであろう。
たまに自分の考えを押し付けるような人が見受けられるがそのような人は他人がどう感じているか、という視点が抜けているのかもしれない(現在僕の周りにはこのような人はいないが昔はいた)。
「正しさ」は普遍的なものではない。
「正しさ」とは作り出すことができるものであり、結局それは各人が一体何を信じて行動するか、ということに帰結するのかもしれない。
たとえそれが圧倒的多数の人によって「間違い」といわれることでもある人の中では「正しい」ことがあり得るのであり、それはそのひとにとっての真実でもあるのだ。
ああ、こんなことを考えていきながら生きていくと頭が痛くなりそうだが…。
僕がここで書いていることはおそらく誰もが感覚的には分かっているであろうことを拙い言葉で説明しただけのものであるので、読む価値もないと思う人も多いのではないかと思うのだが 笑。
長い文章を読んでいただいてありがとうございました。
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