明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ、
”麒麟が来る”も、後半に入ってから段々と
主人公の活躍が描かれるようになりました。
先週は”金ヶ崎の撤退戦”の過酷な戦い、
今週は”姉川の戦い”のシーンでしたね。
”姉川の戦い”のシーンは30秒ほど…。
短い…!あっという間に終わりました。
大河ドラマならではのスケールを感じさせる
戦闘シーンは見られなかったですね。
来週は、”比叡山の焼き討ち”への
道筋が描かれるでしょうか…?
このあたり、93歳で関ヶ原の戦いに参戦した
伝説の武将、弓の名手、大嶋雲八も
信長軍メンバーに加わり、活躍しました。
戦国の世、元亀元年~3年頃のことです。
雲八さんはこの頃、60歳~63歳でした。
そろそろ隠居してもいい年齢なのですが、
再就職先(?)の信長のもとで才能開花…。
まだまだ戦いの最前線で、活躍しています。
信長にその働きを賞賛されていますが、
残念ながら、いまのところ”麒麟がくる”には
雲八さん、登場していませんよね。
では、このあたりのシーン、近衛龍春さん著
大嶋雲八(光義)を主人公とした歴史小説
”93歳の関ヶ原”では、雲八さんの活躍が
どのように描かれているでしょうか…?
もう一度、読み返してみました。
まず”金ヶ崎の撤退戦”から見ていきましょう。
朝倉義景を攻めるため、3万もの兵で
敦賀の金ヶ崎城まで侵攻した信長です。
ところが浅井長政のまさかの寝返りにより、
敵によって、挟み撃ちに状態になりました。
あわただしく金ヶ崎城から撤退します。
まず信長は、わずかな兵で先に脱出します。
撤退戦で犠牲が多く出る”しんがり”軍は、
秀吉が務めた…、と言われています。
ところが、ドラマでは光秀が”しんがり”に
指名されています。それに秀吉が
加わったかたちになっていました。
歴史小説で、”しんがり”を命じられた秀吉は、
「弓衆には、大嶋雲八をお貸し下さい。」
…と申し出ます。雲八さんは指名されて
躊躇するような臆病者ではありません。
秀吉の軍勢に加わり”しんがり”を務めます。
秀吉に名指しされて、雲八さんは、
どんな気分だったのだろうか…?
「厳しい状況の中で求められたことであるが、
悪い気がしなかった。」、と書かれていました。
雲八さん、”しんがり”と聞いてビビるどころか、
使命感に燃えていたのですね。
「大嶋家家譜」は、このように記載しています。
「光義(雲八)柴田勝家が手に加わりて、殿
(しんがり)し、兵を全うして帰る。」
え~っ、柴田勝家も”しんがり”…?
う~ん。この時の”しんがり”って、
秀吉だけじゃなくて、光秀も、柴田勝家も
みんな一緒に務めたのだろうか…?
また、「激しい戦いの中、なんとか生き延び、
満身創痍のいでたちで都にたどりついた。」
歴史小説ではこのように書かれていました。
ドラマでは、光秀も敵の中、森に身を潜め、
やっとのことで生きて帰った有り様でした。
雲八さんも同じような状況だったのですね。
雲八さんは、「みじめな撤退戦となったが
尽力したので満足した。」と、書かれています。
次は”姉川の戦い”に関して…。
江戸時代に書かれた”寛政重修諸家譜”と、
”大嶋之系譜”に、元亀元年”姉川の戦い”
「先駆けして敵数人を倒す」と書かれています。
歴史小説では、「押され気味の織田軍も
雲八の活躍により、勢いを盛り返した…。
押し返したところで、敵は退いた。」とあります。
戦いが終わって、雲八さんは信長から
褒美として黄金を賜ったようです。
「有難き幸せに存じます。」(わしはまだできる)
勝利の喜びをかみしめている雲八さんが
ドラマの映像のように目に浮かびました。
続く本願寺との壮絶な戦いのシーンは、
歴史小説でも描かれていました。
雲八さんはこの戦いでは、鑓で活躍します。
この時期、信長は四方を敵に囲まれました。
寺の門徒や僧兵は、武将とは違った意味で、
しぶとく、やっかいな敵だったようですね。
敵である朝倉をかくまう比叡山側は、
「近づけば5万の僧兵が立ち向かう。
僧兵は一人一人が仏を背負って戦っている。
だから負けたことがない。」と、威嚇しました。
”麒麟がくる”では、信長もそれに対抗して、
大きな仏像をリュックのように背負って、
獣のようにうなり、癇癪を起していました。
笑えるような、笑ってはならないような、
ドラマならではの印象的なシーンでした。
本当に信長はこんな感じだったかも…。
一方、信長が本願寺と戦っている時、
敵の浅井・朝倉軍も近江に侵攻します。
”志賀の陣”(坂本の戦い)が始まります。
ここでも激しい戦いが繰り広げられ、
宇佐山城を守る信長方の森可成は、
討ち死にしました。戦いは膠着しましたが、
朝廷の仲介で和睦となりました。
”寛政重修諸家譜”によると、坂本の戦いで
雲八さんは戦功をあげたと書かれています。
坂本の戦いで雲八さんが着たと伝えられる
甲冑が岐阜県関市に残されています。
信長に「白雲を穿つようじゃ」と賞賛され、
”雲八”の名前を賜ったそうです。
”麒麟がくる”と歴史小説”93歳の関ヶ原”を
照らし合わせながら、全体を眺めてみると、
なかなか興味深いものがありました。