労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその5
五、中上の労働論の限界
労働が、人間が物として自然と連携する行為であるという認識は、マルクスにもある。
「人間自身も労働力の単なる定在として見れば、一つの自然対象であり、たとえ生命のある、自己意識のある物だとはいえ、一つの物であり、そして労働そのものは、そのカの物的な発現である。」(『資本論』第一巻)
だが、マルクスの物(ディング)と中上の物(もの)とは、対象は同じでも意味が全く異なっている。中上の物には至福があり生命の感動がある。しかし、マルクスの物としての人間には、自己意識はあるが感情(感性)がない。人間の現存在が現実的感性的個体的人間であるというフォイエルバッハの唯物論では、労働論がないために〈愛〉という言葉に原理を与えている。フォイエルバッハの〈愛〉を批判したマルクスは、〈愛〉と一緒に感覚論も捨ててしまったようだ。
物としての労働論において、中上はマルクスを超えた所に辿り着いた。しかし、中上はそこで行き詰まった。
中上の労働論には、対人間活動という視点がない。対自然活動の見地で究極にまで進みえても、そこからの拡がりが果たせなかった。袋小路の最奥にまで辿り着いたが出口を見つけることが出来ず、中上は労働論を放棄してしまった。『岬』や『枯木灘』に輝いた至福の労働は、『地の果て至上の時』(八三年)では色褪せてしまい、中上から労働論が消え
てしまう。
中上の労働論の限界は、労働が対自然活動であると共に対人間活動でもあるという二重性のうち、対自然活動の方向だけにこだわった所にあった。ところが、これと全く逆の考察をした人物がいる。柳田国男だ。