労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその9
九、搾取以前の労働
労働が人間の自由の妨げであり、苦痛でしかないものならば、それは短縮されるのではなく廃止されなければならない。労働時間の短縮という改良主義は、奴隷の存在を容認している。自由時間が増えたとしても奴隷であることに変わりはなく、たとえ政治経済的に奴隷から解放されたとしても、マルクスの労働観では人間は自然(神)の奴隷として労働に従事しなければならない。
いかなる生産力の増大によっても、人間が全く労働をしないで生活できるとは思えない。労働廃止論に現実性を持たせることができないマルクスは、労働時間の短縮という惨めな妥協をせざるをえなかった。マルクスは搾取される労働しか、いや、現実の労働の政治経済的側面しか見ることが出来なかったのだ。
マルクスは自然との敵対に終始した。中上のような、自然との交感の境地に、至ることはなかった。したがって、労働を快楽として、生の活動として捉えることは出来ず、労働そのものが自由なのだという思想とは、生涯無縁だった。
マルクス等の西洋の経済的労働価値論は、言葉を換えれば労働無価値論でしかない。これに対して、中上の文学的労働価値論は、労働の対象化物にではなく、労働そのものに価値があるとする。それを柳田は、報酬のない労働と呼んでいる。無償労働や不払い労働のことではない。搾取以前の労働なのだ。