マルクス剰余価値論批判序説 その24
2、労働(労働過程)
マルクスは、労働そのものは労働者(人間)と自然(物)との関わりであって、どのような社会形式にも関わりなく、あるいはまた、あらゆる社会形式に共通なものであると、認識していたため、労働そのものとしての労働過程は、労働者と生産手段の所有者との関係以前のことと見なしている。(5)
労働過程は、流通過程の前提であるとともに、流通過程の外部にある。(6)
流通過程は、労働過程を準備するとともに、労働過程を価値形成過程として成立させる。ここには、二つの側面がある。一つは、労働過程に必要な物(労働する物と労働される物)は、流通過程でしか手に入らないということ。もう一つは、労働過程の目的がそれ自身にはなく流通過程にある、ということである。
流通過程は社会的なものだが、それは私的(排他的)に個別的な諸人格が、物象を媒介として結果的に相互依存的共同性を獲得する過程である。これに対して労慟過程は、私的(排他的)な条件の下で行なわれるものではあるが、その行為そのものは労働する人間たちの直接的・間接的共同(協働)を基盤とする、ゲマインヴェーゼン的行為である。
労働過程は、労働と労働とを直接的および間接的に結合させることによって行なわれる、人間のゲマインヴェーゼンの発揮である。それがゲマインシャフト的な一体的結合であるか、それともゲゼルシャフト的な個別的結合であるかは、このゲマインヴェーゼンの性質を変えるものではない。労働過程は労働行為の過程として、労働活動の発揮として捉えられなければならない。労働過程で結合されるものは労働であって、労働生産物ではない。労働と、その結果としての労働生産物とは、全く別のものであって、労働を生産行為として見
るのは、商品生産を前提に労働を見ることである。
労働過程で労働者たちを相互連関させるものは労働であり、それぞれの労働のやり取り(交換)である。それは、労働生産物の交換である流通過程とは、明確に異なった過程である。
労働過程は、社会の外部にある。
商品は、消費過程では商品ではなく、たんなる物、使用価値である。労働力商品もまた、消費過程(労働過程)においては、商品ではなく使用価値でしかない。(7)
労働過程は、社会の外部で行われる、私的(排他的)に隠蔽された過程である。
①労働過程は、流通過程の外部で行われること。
②労働過程は、資本家の私的な消費過程であること。
③労働過程では、労働者は社会的人格ではなく、資本の付属物であること。
④したがって、労働過程の結果としての生産物は、資本家の私的な所有物であること。
これらのことを指摘しておきながら、マルクスは、労働過程が社会の外部にあることに気づかない。先に見たように、マルクスは、労働過程においても社会的関係を見てしまうからである。
資本家や賃金労働者という社会的人格規定は、流通過程における規定であって、労働過程においてはそのような規定は剥奪されている。労働者は労働する物(ある意味ではこれを「人間」と呼んでもよい(8))であり、資本家は資本である。
マルクスは、古典派経済学が労働過程をプラックホールと見なして、考察の対象から外していることを批判した。そして、労働過程を流通過程と結合させることによって、剰余価値を説明した。しかし、その際、労働過程を流通過程と同様に社会的過程として、捉えてしまったのである。
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