マルクス剰余価値論批判序説 その25
3、生産過程
資本の生産過程は、労働過程と流通過程との統一である。資本は、どちらか一方だけからでは、創造されない。プルジョア経済学は、流通過程からの資本の発生を唱えた。マルクスは、等価交換の流通過程からは剰余価値の発生の余地はないとする批判から、等価交換に見えて実はそうではないものとしての労働(労働力)・に注目した。そして、労働(労働力)という独特の商品の、交換(流通過程)と実際の使用(労働過程)という、交換価値と使用価値との通約不可能性から生じる交換価値の差異性によって、剰余価値の発生を論証したのである。
しかし、資本の生産過程が労働過程と流通過程との統一であると言うのは、商品が使用価値と価値との、あるいは商品の生産過程が労働過程と価値形成過程との統一であると言うのとは、基本的に異なっている。商品や商品の生産過程を、二つの対立的側面の統一であると言うのは、それが弁証法的な概念的統一だからである。つまり、価値や価値形成過程というものは実在的なものではなく、使用価値や労働過程という実在的なものとの反照規定(弁証法)による統一の片方にすぎない。
これとは違って、資本の生産過程における、労働過程(直接的生産過程)と流通過程との統一とは、構造的な統一なのである。
マルクスは、労働過程を前提として流通過程を置き、その構造的統一によって剰余価値を発生させ、資本の生産過程を捉えたのである。
したがって、マルクスの見解を整理すれば、まず、労働過程が全ての社会形式の土台(外部)として存在し、その上に流通過程という社会があり、さらにその上にゾツィアールな部分が乗っている、ということになる。
ところがマルクスは、「部外者立ち入り禁止」という私的(排他的)に隠蔽されたものである労働過程を、流通過程と同じく社会的過程として取り込んだため、剰余価値を社会的に、すなわち交換の法則にもとづいて論証したのである。
労働者の実際の労働は、必要労働と剰余労働に分けられる。資本のもとで行われた労働は、支払労働と不払労働とに区分され、この不払労働の部分が剰余価値となるのである。
剰余価値は、いとも簡単に、足し算と引き算によって説明される。剰余価値にたどり着くまでの、価値や貨幣や労働力商品の規定の難解さに較べれば、剰余価値とは不払労働であるとする説明の簡単さは、たしかに度肝を抜かれる(あきれてしまう)ものではある。(9)
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