敦賀茶町台場物語 その17
付記
茶町台場は砲台場として築かれたが、そのものとしては直ぐに放棄された。三十数年後に測候所の土台として使用されるようになったが、人の目は土台には向かず、砲台場があったという記憶は消滅した。
その後、昭和一八(一九四三)年になると、戦局悪化の状況下において民心を掌握するために、国は五十戸を単位とする町内会制度を実施した。川崎と松栄を併せて六つの町内会を設置することになった。池子、中洲、台場、荘山、茶山、秋葉、出村の六つである。由緒が有るような無いような名前だが、誰も覚えていない八十年後になって、「台場」が復活したのだった。
戦時下という困難な非常時に与えられた町内会名及び地名としての「台場」は、当時の人々の記憶に焼き付けられた。川崎町では「台場」の地名は、同時に復活した「池子」と共に、戦後ずっと生き続けることとなった。池子は江戸時代の池子町という実態があったので、八十年後でも容易に復活しえた。「台場」は、幕末の茶町台場が建物の土台となって忘れられていたので、どこか浜辺りの地名だと思われて、不確かながらも記憶の中に維持されてきたのだった。
江戸時代の二百数十年間、茶町及び池子(池須)町の名前と共に生きてきた人々が、明治になったからと両町を一つにされ、町名も川崎町という何の親しみもないものを押し付けられることとなった。それまで自分のよって立っていたところのものを取り上げられ、訳の分からない悪質なものを替わりに無理強いされたのだ。世の中が新しくなったと言われても、足元が悪く変わったのでは、この先期待は出来ないのではないか。
町民の意に添わぬ合併や町名の変更は、その不満を上に対して訴える途が閉ざしていれば、町民内部にわだかまるしかない。そしてそれは旧茶町対旧池子町の争論として、さまざまな形で噴き出るしかない。
大正四(一九一五)年に川崎町が神輿を購入したのは、まさに「川崎町南北(旧茶町と旧池子町)の融和のため」だった。つまり、大正になってもまだ、神輿というシンボルが必要なほどに、町内の融和が求められていたのだ。
町内融和のための神輿が導入されて百年が経過した。神輿は町内融和の役に立っただろうか? 特に表立って問題があるようには見えないので、神輿はその役割を果たしたと言えるだろう。だが、町民の高齢化が進み、少子化と相まって人口が減少し、もはや神輿を担げる者がほとんどいないという状況になっている。
このままでは、町を維持することが出来るかどうか分からない、というところまで来ている。つまり最悪、町の記憶が無くなるかもしれないのだ。そのような中、百六十年も前の記憶を呼び覚まそうとするのは、無駄な悪あがきかも知れない。このような昔の記憶が、今更何かの役に立つとも思われないが、この土地の意思とでも言うようなものに求められている気がして書き始めたものの、まとまりのないままに終えることとする。
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