マルクス剰余価値論批判序説 その5
3、社会的なこと
マルクスは、社会の内部で生産する諸個人から出発する。しかし、彼らの生産は、直接には社会的ではないと言う。したがって、マルクスが前提とするのは、社会的な諸個人の直接には社会的ではない生産である。これは、どういう意味だろうか。
マルクスは、「社会的であること」の反対を表現するために、「直接的に社会的であること」という言い方をする。つまり、社会的なこととは、個々人が非直接的に連関していることである。諸個人は、物象に媒介されて連関している。この、人間以外の物象に媒介された諸個人の連関が社会であり、社会的な形式なのである。そして、物象に媒介されないで、諸個人自身が媒介の役をなして個々人が連関していることを、直接的に社会的な形式であると、言うのである。
ところが、「社会的であること」が、孤立した、媒介された、非直接的なことであるという規定を、マルクスは厳密に守ってはいない。直接的に社会的なことをも、社会的なこととして書いている場合が多い。
たとえば、大工業では個々人の労働は、止揚された個別的労働、社会的労働として規定されていると言う。(10) しかし、止揚された個別的労働は、社会的労働ではなくて、直接に社会的な労働であると、言わなければならない。
また、ゲマインシャフト的な生産では、個々人の労働は初めから社会的労働(一般的労働)であるが、交換価値の基礎のうえでの労働は、貨幣を媒介として事後的に一般的労働になるのだと言う。(11)
ゲマインシャフト的な生産における労働が、初めから一般的(普遍的)な労働であると言うのはかまわないが、それを社会的労働であると言うのでは、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトとの区別が、消滅してしまう。
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