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マルクス剰余価値論批判序説 その28

2021年03月19日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その28

 

(1)たとえば、岩佐茂氏は次のように言う。「社会的諸関係のこれらの関係のうち、マルクスは、物質的生産にかかわる生産諸関係(物質的関係)を社会の土台として、それ以外の他の諸関係を何らかのかたちで土台によって規定される社会の上部構造として特徴づけた。」(『人間の生と唯物史観』青木書店、一一六頁)。このように岩佐氏は、社会を土台と上部構造に分けている。しかし、岩佐氏自身がこの文の直前で述べているように、「社会的諸関係は物質的関係(生産関係)、社会的(social) 関係、政治的・法的関係、精神的関係に区分することができる」のならば、ゲゼルシャフト的関係とゾツィアールな関係とを、共にゲゼルシャフトの関係としてしまうことは、社会という日本語の没概念性に、あまりにも無自覚ではないのだろうか。

(2)『資本論草稿集』第二巻、四九六頁。

(3)MEW 二五、七九九ー八〇〇頁。

(4)MEW二三、二三一頁。

(5)「労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形式にもかかわりなく考察されなければならない」(MEW二三、一九二頁)。「これまでにわれわれがその抽象的な諸契機について述べてきたような労働過程は、使用価値〔この使用価値が誰のための使用価値なーーのかをマルクスは言わない 注7参照〕をつくるための合目的的活動であり、人間的欲求を満足させるための自然的なものの取得であり、人問と自然とのあいだの素材転換の一般的な条件であり、人間的生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形式にもかかわりなく、むしろ人間的生活のあらゆる社会形式に等しく共通なものである。」(同、一九八頁)。

(6)「労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外部でおこなわれる。」(MEW 二三、一八九頁)。「流通の前提とは、労働による諸商品の生産であるとともに、諸交換価値としての商品の生産でもある。」(『資本論草稿集』第一巻、二九七頁)。

(7)厳密に言えば、このように言うのは間違っている。商品が消費過程に入った際に使用価値になるというのは、商品が商品ではなくなるということではない。商品は、流通過程では交換価値という規定性で現われるが、消費過程では使用価値という商品のもう一方の規定性が現われるのである。使用価値も交換価値と同様に、商品の規定の一つなのである。生産物の使用価値という規定は、生産物が商品となることによって与えられたものである。商品生産以前の労働生産物は、交換価値ではないのはもちろんだが、使用価値(他人のための使用価値)でもないのである。労働生産物が使用価値と見なされるのは、それが商品であるからである。したがって、使用価値という言葉は、それが他人のための使用価値として対象的・媒介的に存在するものなのか、それとも自分の直接的使用を指しているのかで、区別されなければならないのである。これを無視すると、労慟が元来使用価値の生産であるという誤った見解を引き出すことにつながる。労働とは、生命発現(生命維持)の人間的行為であって、対象化活動というような使用価値生産(商品生産)活動ではないのである。このような、使用価値生産労働への批判から「非対象化的労慟」を考え出した今村仁司氏(『労働のオントロギー』勁草書房、二二〇頁)は、それを抽象的人問労働あるいは社会的労働になぞらえている。今村氏の見解は魅力的だが、氏の社会論がマルクス同様混乱しており、その労働論の理解を妨げている。抽象的人間労働とは直接的に社会的な労働(ゲマインシャフト的労働――ゲマインヴェーゼンとしての労働)であって、社会的労働とは具体的有用労働(商品生産労働)のことである。社会的あるいは連合的と言うだけでは、それが直接的か媒介的なのか、はっきりしない。このような混乱は、マルクスに責任がある。

(8)「生産過程一般、これはどんな社会状態にも属するもので、したがって歴史的性格をもたず、人間的といってもよいものである。」(『資本論草稿集』第一巻、三九〇頁)。

(9)「この部面での取得の法則として現われるのは、労働による取得、等価交換だから・交換はただ同じ価値を別の具体物で返すだけだ。要するに、 ここではいっさいが『美しい』。だが、すぐにどぎもを抜かれるような結末になるだろう。しかも等価の法したがって。」(マルクスからエンゲルスへの手紙、一八五八年四月二日付、『全集』第二九巻、二四九頁)。

10)MEW二三,五六二頁。

 



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