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マルクス剰余価値論批判序説 その27

2021年03月18日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その27

 

5、社会の外部

 

労働賃金という形式は、労働が、人問生活の土台であり、人間生活の自然根源的共同制度であることを、隠すのである。それは、貨幣という外的物的な物象が、人間労働に替わって共同制度(ゲマインヴェーゼン)となることによってである。

賃金(貨幣)という直接的に社会的な物と、労働という社会の外部とは、共に、人問の自然的および歴史的な本質としてのゲマインヴェーゼンの、物的および人問的な存在である。それはゲマインヴェーゼンが、物において現われたものと、人間の活動において現われたものとの、違いである。そして、労働が社会によって隠蔽されているからこそ、貨幣のゲマインヴェーゼンの直接性が、社会を超越したものとして現われるのである。貨幣の超越性は、労働本来の反社会性の物的な現われである。

マルクスの分析は、資本制生産の原理の全てを捉えている。ただ一点、マルクスの決定的な誤りは、社会を絶対化したことである。

労働の直接的な交換が、人間の本質としての共同制度であることと、資本制社会が貨幣を媒介とした間接的で物的(対象的)な労働の交換であり、労働は私的な場所で行なわれようとも労働者たちのゲマインシャフト的な結合によってその力を発揮するものであることを、マルクスは理解している。そして、労働過程を私的(排他的)なものとすることによって、その私的な生産物を社会的生産物(商品)として流通させることによって、資本が増殖することも理解している。

ところがマルクスは、労働過程が社会の外部にあることを認めない。したがって、外部を構造的に取り込む(隠蔽する)ことによって、社会は剰余価値を生み出すということを、実際の分析によって行なっているにもかかわらず、労働過程をも社会的過程であるとしてしまうのである。

社会によって社会を批判し、社会のさらなる社会化を求めるという、マルクスの社会の形而上学は、マルクスが決定的な点でそのプルジョア性を克服できなかったことを、示している。

この点を突いたのが、フェミニズムの家事労働論だろう。しかし、このせつかくの有効打も、家庭内での労働力の再生産労働が社会の外部にあることは指摘できても、労働そのものが社会の外部にあることには気づかないので、社会の外部にある家庭内労働を社会の内部における労働として認めよという、複雑怪奇に転倒した主張となっている。(12)

労働することが社会人の条件であると思われている状況では、労働が社会の外部にある非(反)社会的なことだという主張は、受け入れがたいものではあるだろう。特に、「労働の社会的性格と所有の私的性格との矛盾」を説く立場からは、労働が社会的なものではなく非社会的なものであって、社会の外部に存在するものだと言うのは、理解に苦しむ前に拒絶されるに違いない。

 



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