見出し写真のような光景を眺めていると、穏やかな秋の日を浴びて釣り糸を垂らすのも悪くないかなぁと思う。
40年くらい前の一時期、乗り合いの釣り船に乗って沖に出ていたこともあった。
たしか今ごろの季節だとイナダになる前のワカシとか、サバやソーダガツオなどが釣れたと思う。
乗り合わせた釣り人の多くは50匹100匹とわき目もふらずに釣りあげていたが、ボクはそんなの羨ましいとも思わず5、6匹も釣りあげれば満足していたし、何十匹と釣り上げて家に持ち帰ったところで始末に困るだけだった。
ボクが乗合船に乗る気になったのは波に揺られながら日がな一日釣り糸を垂れるという非日常の行為そのものに魅かれたのであって、釣果を求めての事ではなかった。
ワカシはブリの幼魚だし、サバだって釣れるのはマサバでなくてゴマサバだったり、ソーダガツオに至っては魚屋の店先にも並ばないような魚だ。
かと言ってタイ釣りのような高級魚狙いは腕が伴わないし…
新鮮なだけが取り柄だったわけだが、さほど深入りする前に辞めてしまったのは、何度か船に乗ると非日常そのものが怪しくなってくる。
それに加え、1回の釣りに投じる費用を考えると魚屋で新鮮な魚を買ってきて食べるので十分だという「費用対効果」もチラつくようになった。
もっとも、この場合の費用対効果は単純に比較は出来ず、波に揺られることと新鮮な魚を手軽に手に入れることとは天秤にかけること自体がナンセンスだと思う。
つまり、のんびりと波に揺られているということそれだけに価値をみいだせる人がいる一方で、釣果至上主義みたいな人だっている。同じ船に乗り合わせても求めるところが違えば「費用対効果」の尺度が違ってくるのは当然だろう。
第一、海辺の町に暮らしていれば海から離れた土地に比べ、格段に安くて新鮮な魚が手に入るものなのだ。
魚屋の店先は魚種だって豊富だ。ワカシやソーダガツオばっかりじゃない。
まっ、こんな単純なことに加えてボクの仕事が休みの日でも緊急呼び出しのあるポストに変わり、一旦海の上に出たらおいそれとは戻れない海の上に出ることがかなわなくなったことも遠ざかってしまった一因である。
たしか、釣り船には貸し竿ってものもあったはずだ。
費用は渋沢栄一に変わる前の福沢さん1枚で足りるだろう。
身一つでぶらっと行っても何とかなるものかどうか。
気が向いたら釣り船屋の人に聞いてみようと思う。