平方録

値千金の一刻を逃しちまったぜ

思えば今年の春はおぼろ月を眺めることも、いわんや、少し心を浮つかせておぼろ月にぼわぁっと浮かび上がる街を徘徊するなんてこともなかった。

今年の春は寒さが行きつ戻りつしたようだし、サクラの開花宣言から満開を経て散り行くまでにどれだけの時間がかかったことか。
そういう意味では稀有な春だったように思う。
稀有な春を迎えはしたが、だからと言って夜桜見物に出かけたわけでもないから、そもそもおぼろ月が浮かんでいるような暖かくて心地よい宵があったのかどうかも知らない。
考えてみればもったいない話で、何も小学生の「良い子」のような毎日を送る必要はみじんもなかったんである。

妻を誘って飲みに出かけることもなかったし、友人に夜桜見物に誘われたが、あいにく都合が悪かったりで、ちょい悪ジジイを気取っている割には、どういう訳か行動半径が極端に狭まってきてしまっているかのようである。
こういうのも一種のローカ現象の一つとしてとらえたほうがよさそうで、少し考えなくてはいけないことのようである。
個人的な事情があるにはあったのだが、世間が狭まってくれば考え方も狭くなり、挙句はボケていくしかないのだろう。そんなのはちょっとゴメンこうむりたいからねぇ。

 清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人みなうつくしき

(朧月夜の春の宵に清水へ行こうと祇園を抜けていくと月も美しいし桜も美しい。自分の心が浮き立ってくるせいか、行き交う人がみな美しく見える)

春になって桜が咲くと、決まってこの与謝野晶子の歌を思い出す。
夜桜見物は別に京都でなくてもいいのだが、この歌を思い浮かべるとすぐにでも新幹線に飛び乗りたくなる。
祇園を抜けてぶらぶら歩いてみたくなるのだ。
でも、なぜか今年はこの歌が浮かんでこなかった。「忖度」だの「私的随行」だの不愉快なことが多すぎたんである。嘆かわしい春でもあったのだ。

春と言えばもう一つ思い浮かぶのが蘇軾の七言絶句「春夜」である。

 春宵一刻値千金
 花有清香月有陰
 歌管樓薹聲細細
 鞦韆院落夜沈沈
  
(春の夜のすばらしさは、ひとときが千金にも値するほど貴重なものだ。花には清らかな香りがあり、月はおぼろに霞んでいる。高殿から流れていた歌や楽器の賑わいも静かになり、今は細々と聞こえてくるだけだ。中庭のブランコはひっそりとぶら下がったまま夜は静かに更けてゆく)

こういう歌や詩を口づさみ、ぼぉ~っと光る月を感じながら花の下をそぞろ歩いてみたかった。ちょっと浮つくような気分を味わいたかった。
こういう時は合間に2合くらいのほろ酔いの酒を口に含むのがちょうどよさそうである。
おいしく飲めるであろう酒の機会を、それこそ値千金の一刻を逃してしまったわけだ。もったいないことをした。

最後に松尾芭蕉が奥の細道に出発する際に江戸のはずれの千住で見送りの人たちの前で詠んだ1句。

 行く春や鳥啼き魚の目は泪

もうすぐ大型連休。そして立夏ですよ。思えばあっという間ですな。
連休中は観光客で混むんだろうが、ヨコハマの夜を歩いてみようと妻から誘われた。おぼろな夜ではないだろうけど、それもいいなぁ。



横浜のミナトの見える丘公園に出現した洋館群。実物と見紛うが、実はミニチュアセット!


港の見える丘公園の「緑化フェア横浜」会場のバラのアーチ。病害虫の被害もなく育っていて花芽の付きも良く、連休明け頃から咲き出すと、わが横浜イングリッシュガーデンのライバルになりそうである


公園の一角にアメリカハナズオウが咲いていた。小枝を伸ばさず、太い枝からいきなり花が咲いているので、ちょっと違和感を感じる。不精な花木のようである
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