鎌倉を詠んだ山口素堂の有名な句だが、まさに素堂が見て感じた通りの季節に差しかかっている。
昨日、相模湾に面した道の駅で丸々太ったカツオを見たし、青葉は目に痛いくらいに光り輝いている。
この時期のカツオは黒潮に乗って北上中で、黒潮の分流が相模湾に近づくから、湾内でもカツオが獲れるのである。
この鎌倉沖で獲れたカツオが、江戸時代に大急ぎで江戸に運ばれ、江戸っ子を熱狂させたんである。
もっとも、最近では2月の立春の頃には房総半島の勝浦沖の太平洋で獲れたというカツオが魚屋の店先に並んで、魚屋の方でも「初ガツオ」なんて朱色のインクで大書した薄い経木をこれ見よがしに添えたりしていて売っている。
だから、寒さの代名詞の寒ブリと青葉とセットのカツオが同じ店頭に並ぶという、季節がごちゃごちゃになってしまったかのような観を呈するのである。
これほど昨今の世相を反映しているものはあるまい、などとへそ曲がりの身には映るのだが、よくよく考えて見れば、これは浅はかな見方で、現実の世相のごちゃごちゃ、でたらめぶりは、こんなものの比ではない。
憲法は骨抜きされ、民主主義さえあっという間にぶっ壊されてしまったほどである。
今日の主題はそこに非ず。
書きたかったのは、ホトトギスが鳴かないなぁということ。
例年だと、鎌倉での初音は大型連休あたりからで「東京特許許可局」と鳴き始め、しかも夜中にも聞こえてきたりするんである。
外の音が良く聞こえるように、午前4時過ぎから窓ガラスを開けているのだが、今年はまだ耳にしていないんである。
ホトトギスが待ち遠しいのは素堂の俳句もさることながら、小学唱歌として知られる佐々木信綱の「夏は来ぬ」に由来しているのだ。
♪ 卯の花の にほふ垣根に 時鳥 早も来鳴きて 忍音もらす 夏は来ぬ
この歌を聞くと、不安定な春が通り過ぎ、寒さも絶対に戻ってこない日々がようやく訪れたんだという安心感と、これから大好きな入道雲が湧き経ち、学校に通わなくて済む長い長い夏休みはもう目前なんだ、という期待感と解放感が一緒にやってきて、子ども心が幸福感に包まれたものなのである。
よくぞ作詞してくれた、というくらいこの歌は好きである。
しかも、ホトトギスという鳥は特別な鳥で、「初音」とか「初声」という語はウグイスとホトトギスだけに許されているんである。
春に使う初音がウグイスを指し、夏に使えばホトトギスのことなんである。別格本山官幣大社なのだ。
ほととぎす空に声して卯の花の 垣根も白く月ぞ出でぬる 永福門院
佐々木信綱は上の歌を踏んで作詞したようである。
ホトトギスは古の時代から親しまれてきた鳥なのである。
俳句の世界でも山口素堂以外にも沢山の句が詠まれている。
谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま 杉田久女
時鳥鳴くや湖水のささ濁り 内藤丈草
野を横に馬牽き向けよほととぎす 松尾芭蕉
ほととぎす消行方や島一つ 同
ほととぎす平安城を筋違いに 与謝蕪村
岩倉の狂女恋せよほととぎす 同
鳴くならば満月に鳴けほととぎす 夏目漱石
聞かふとて誰も待たぬに時鳥 同
それこそ山ほどあるが、蕪村の「ほととぎす平安城を筋違いに」が一番好きだな。スケールがずば抜けて大きい。
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」は家康の代名詞だが、ともあれ、早く初音を聞きたいものである。

円覚寺の居士林裏の崖のイワタバコの花が間もなく咲きそうである

お地蔵さんの頭の上のイワタバコも蕾が膨らんでいる

由比ヶ浜では凧上げの糸に結びつけられた鯉のぼりが泳いでいた