「酷暑」「炎暑」「厳暑」などの文字は見るだけで暑さを感じるし、「油照り」に至ってはほとほとうんざりさせられるほどたっぷりの粘着性を持って絡みついてくるようである。
こうした表現の数々こそ、あまりの暑さに「これはもうありきたりの言葉では言い表せぬ。何か新しい言葉を見つけ出さなくては」と古の時代から、人々は困惑の内にも大いに遊び心を発揮して次々にひねり出してきた涙ぐましい奮闘の痕跡といってよい。
こうした痕跡を残すという行為こそ、忌々しい暑さなんて無視したいけどとても無視など出来っこない…という追い詰められた気分から発したやけのやんぱちの果ての開き直りに近いのかもしれない。
冷たいものを飲みたいくせに、わざわざ熱いお茶をすすったり、汗が吹き出すに決まっている辛い物をわざわざ食べて汗だくになったり…
そういう意味ではヒトというのはなかなか一筋縄ではいかない生き物である。
短歌や俳句などに読み込まれた描写もまた強烈である。
例えば高井凡菫に次のような句がある。
「濁り江の泡に皺よる暑さかな」
流れのよどんだ水面の一角に浮かんだ泡の存在そのものが見苦しく暑苦しいのに、表面が干からびかけてシワが寄っているなんて…
短歌で拾い上げると前田夕暮のこの歌はどうか。
「向日葵は金の油を身に浴びて ゆらりと高し日のちいささよ」
油なんか掛けられてコーティングされちゃったら息も出来なくなっちまう。まったく、たまったもんじゃないぜ…
ヒマワリでもう一つ。
「向日葵の大声で立つ枯れて尚」(秋元不死男)
断末魔!
こういうのはどうか…
「涼風の曲がりくねって来たりけり」
一茶の句で、江戸の長屋に住んでいた当時、暑さにうだりながらも、密集して建つ長屋の奥まで、かすかながらの涼風が届いた歓びを詠んだものだそうだが、ニヤリとしつつホッとさせられるものがありますな。
今日はまた晴れて暑くなるらしい♪
「くもの糸一すじよぎる百合の前」(高野素十)
ぶらりと立ち寄った近所の寺ではまだヤマユリが咲いている
我が家周辺で最初に咲いているのを見かけたのは6月19日のことだったから、意外と花期が長い
おそらくラストランナーだろうが、境内ではあちこちで盛りを迎えている
これが6月19日に撮影したトップランナー
山際に沿って曲がりくねって続く小路の脇の崖の上に咲いていた
辺りに芳香が漂い、目に入らなくても鼻で咲いているのが分かったかもしれない
このとき、足元に咲いていたツユクサの透き通るような青さが印象的だった♪