そもそもパンジーのタネの発芽適温というのは20度前後なのだ。
それをわざわざ真夏に蒔くというのは、この時期に蒔いて育てれば年末から咲き出してくれるので花の少ない時期に楽しめるという利点を求めてのことである。
タネをまいた苗床を涼しい明るい日陰に置き、しかも寒冷紗を張って強い光をやわらげたりしながら温度管理に気を遣うのだ。
タネまきから27日目、それが昨日の移植作業なのである。
毎年の作業なのだが、この移植作業は根を痛めないように気を遣いながらの結構繊細で根気のいる作業なのだが、花咲爺にとっては何度やっても楽しい。
同じ姿勢を取りながら黙々と移植作業を進めるのだが、作業を進めている間というのは余計なことを考えずに済むというか、集中してやっているので他のことを考えるいとまがないというのが、まず気に入っている。
こういう単純な作業もボクには向いているところがあるらしく、大まかに言えば飽きっぽい移り気な性格じゃないかと思っていたボク自身が「へぇ~」と驚くほどなのだ。
ヒトというのは何か一つのことを集中してやっている時、大概の場合はそれ以外の余計なことは考えないものである。
と言っても身の回りに我を忘れて夢中になって取り組めるような事柄がゴロゴロ転がっているわけでもない。
嫌々やらされるようなものではとても集中どころではないだろうし、第一それでは根気が続かないだろう。
そういうことを前提に置きつつわれとわが身を振り返ってみると、この移植作業や庭の草取りをする場合に限って、何も考えずに「ただひたすら」という表現がぴったりくるような状況に身を置くことが可能でになる。
円覚寺の坐禅では何も考えずに静かに長く深く呼吸しろ。そしてその呼吸に合わせてゆっくりゆっくり数を数え、それができるようになったら、ただひたすら自分の呼吸する姿を見詰めるようにしろと指導される。
これは言うのはたやすいが行うにはなかなか骨の折れることで、そうおいそれと出来るものではない。
これが出来るようになると「無」と呼ばれる世界に近づけるんだろうなぁと思いつつ、苦闘の日々は続くのである。
が、しかし、この移植作業や地面にはいつくばって一心不乱に草取りを続けていると、ふと我に帰って「あれ、今何を考えていたんだっけ」とか「何してたんだっけ」とポカンとしてしまうようなことが起こるのだ。
ほら見たことか、お前さんもついにボケの症状が出て来たか、キノドクに…という声が聞こえてきそうだが、さにあらず! だと思っている。
いささか牽強付会な感なしとしないが、これがもしかしたら禅でいうところの「無」というものに似ているのではないかしらんという思いなのである。
そうであるかもしれないし、まったく違うのかもしれない。
しかし、いずれにしたってこの状況に達するとボク自身としてはすごく気持ちがイイのだ。
日常ではなかなか味わえない気分に行き着くことが出来るというわけである。
そして何より年末から咲き出したパンジーは庭を彩り続け、梅雨が終わるころまで楽しませてくれるからね ♪

ピートバンにまいたパンジーの苗に本葉が現れ、しっかりしてきたたころが移植時

ピートバンから根を傷つけないように注意深く苗を掘り出して

用土を入れたポットに移し

苗が安定するように用土を加えていく

移植の終わったポットは即効性の有機肥料を加えた水につけてたっぷり水分を吸わせる

養分をお腹いっぱいもらった苗に陽を当てて育てると3か月ほどで花を咲かせる

モルフォ52、みやび24、よく咲くスミレライチ24、よく咲くスミレレモネード16、合わせて116個の苗を移植できた
根が切れてしまったり、もともと生育の悪い株が3つ出たが、それ以外はすべて移植できたので、歩留まりはとても良い

後はどこまですくすく育ってくれるかだ

これが移植作業を行った〝舞台〟。ナイフは苗床から苗をほじくり出す時に使うと便利