平方録

もったいなくて もったいなくて

先週の日曜日のことだが、心に沁みとおるような詩の存在を教えられた。

 ほろほろと 秋のひかり 手に受けて
 もったいなくて もったいなくて
 穂すすきも 桔梗も かるかやも
 みんな風に動いている

静岡県三島市にある臨済宗・龍沢寺の中川宋淵老師という坊さんが詠んだ詩だそうである。

坊さんの作った詩だから、仏の慈悲は誰彼を区別するわけでもなく、等しく平等に射しかけているのだ――ということを言わんとしていると解釈されている。
でも、そういう説明は説明として、ここに表現されている光景を思い浮かべ、あるいは実際に秋の光が射しかける広い野原に出かけて行って、優しく柔らかな光にくるまれてみたいという気持ちにさせられる詩でもある。
それだけ自然な心のありのままの感動を表現している詩であるとも受け取れるのだ。

ボクが惹かれる詩や歌、俳句の類、あるいは絵でも音楽でも「あぁ、何か分からないけど いいなぁ 心にしみてくるなぁ! 」と感じるのは、振り返ってみればみんな、自然で心の感じたままを素直に表現したものばかりだということに気づく。
先日琵琶湖のほとりまで9時間かけてはるばる出向いて観てきた田村一村の絵にしたって、中央の画壇と縁を断って奄美大島に移り住み、自分の信じるところを心のままに描いていこうと決めた後に描かれた絵とそれまでの絵とは天と地ほどの差があるのだと言っても過言ではない。

別に一村のようにまなじりを決して描かなくったって、幼稚園生の描いた絵の前で立ち去りがたい思いでじっと見入るようなことがある場合も、やはりこれは同じように心のままが素直に表現されていて、それに触れてこちらにも幼稚園児の感動が伝わってくるからで、つくづく素直な心の働きというものに人は飢えているのかということに気づかされる。

まぁ、生煮えの訳の分からないことをグダグダと書いているが、日ごろから肩に力を入れて生きていて、力を入れて握りしめているコブシをほどいて、力をすっかり抜いて開いたその手のひらに感じる秋の柔らかな光を、もったいない、もったいないと思える心持ちというものが自分にあるだろうかと自問してみたいのだ。
そういうことを、この詩を知って強く感じたというわけである。
素直な心というものの在りかも含めて…


何が言いたいか訳が分からん? そういうこともあるさ。




今朝5:35の東の空。「ほのぼの明ける」というところよりは進んでしまっている


こちらは雲があった昨日の5:50の東の空


円覚寺黄梅院のムラサキシキブ


同じくシュウメイギク


同じく観音堂を覆うモミジ。11月下旬から12月初めころが鎌倉では紅葉の見ごろとなる
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