8時半の開門なので、その5分前に着いたのだが、開門を待つ行列は北鎌倉駅の改札口の目の前まで伸びている。
7月も8月も同じ時刻に着いたときに行列はできていたが、総門の階段の下までで止まっていたから、びっくりした。
北鎌倉の臨済宗大本山・円覚寺で毎月第2日曜日に開かれる日曜説教坐禅会に参加するため集まった善男善女たちである。
9月の声を聴けば少しは暑さも和らぐだろうと、夏の間は敬遠していた善男善女がどっと押し掛けた印象である。
わが家からは自転車を漕いで20分余り。家を出た瞬間は体に当たる風が心地よかったが、正面から朝日を浴びて漕いでいるうちに汗が噴き出してきて、夏がどっかと大あぐらをかいて座ったままなのを痛感させられる。
ほかの善男善女たちはどのように感じたろうか。
この日曜説教座談会の最大の眼目は横田南嶺円覚寺管長の法話が聞けるということである。
坐禅をしない人も、管長の話だけ聞きに集まってくる。
この日の話は細部はすぐに忘れたが、おおざっぱな大意は次のようなものだった。
「(例えばの話)呼吸に何かと支障のある人は何とか楽に息を吸いたいものだと必死になって、そのことばかりに意識を集中させるものだ。しかし、そうでなければ人は呼吸していることさえ忘れてしまっている。翻って、あらゆる場面でこのことは言えるもので、いちいち一喜一憂しながら気にかけて生きるより、その大切なことさえ普段は忘れてしまえるほどの(何の心配もない)状態にいて、それでも『気にしなくて済んでいるだけなのだ』と自覚し、理解できていることが生き方の極意である」みたいなことだったような気がする。
ボクにはハタと膝を打てるようなところのある話で身に沁み、心に残った。
「今かくかくしかじかだが、実はこれは表面に現れたごく一部に過ぎず、実際はかくかくしかじかこれこれなのだ」と自覚して生きる。
ところが、一見簡単そうで、これが案外難しいものなのである。
そもそも"今はかくかくしかじかだが"が楽ちんであればあるほど安心してしまい、"実際はかくかくしかじかこれこれなのだ"ということを失念してしまう、思いを致さなくなってしまうのである。
総門をくぐり山門へと通じる階段を上がっていく善男善女
仏殿の横を抜け、法話・坐禅会場である大方丈へと向かう善男善女
…ということで、ありがたい法話も坐禅も終わり境内のパトロールに移る
谷戸の最深部に位置する黄梅院はいまだ旺盛な緑に包まれ、周囲の山からはしきりとミンミンゼミの鳴き声が降り注いでいた
黄梅院の蹲
花はまだ少ない これはハギによく似ているが、花そのものが小さく、別品種だろう
これはアジサイでいいんだろうな…
これはハギ
うん、間違いないね
色が少し褪せているように見えるが、スズムシバナだろう
右奥に見える緑いろの屋根が山門、左の緑色の屋根は仏殿
在家の坐禅修行者のための居士林の建て替え工事がだいぶ進んでいる
お昼近く、インバウンドも含めて、なぜか境内は観光客の姿が少なかった