かくして水も滴るいいオトコは簡単に誕生するのだ。
わが家周辺の場合、南側の低い丘を越えた海風に乗って霧が下りてくる。
夜目にも白い物体の動きは良く分かり、わずか200メートルほど先の丘が隠れてしまうほど深く立ち込めている。
霧発生のメカニズムは中学か高校で習った。確か地理の授業だったような気がするが定かではない。
要するに空気中の水蒸気の量が飽和に達し、締めだされた水分が凝固して水滴になって漂う現象、と習ったように記憶している。
海岸地方だと昼間温められた海水から水分が多めに蒸発して空気中に漂うが、夕方から夜にかけて海水温より地表の温度が先に下がるため、冷えた地表にふれて冷やされた空気中の水蒸気が締めだされてしまうのである。
しかも梅雨時だから、それでなくとも空気が湿っているところに海からの蒸発が加わってぎゅうぎゅうになってしまっているはずである。
昨日の日中は梅雨の晴れ間で、抜けるような青い空とまではいかなかったが、時々薄雲がかかるものの、それ以外は太陽がカッと照りつけていたから温度はだいぶ上がったようである。
たまたま用事があって車で横浜の中心部まで出かけたが、車の温度計では横浜市の中心部では32度を記録していた。3時近くに戻った鎌倉の温度は28度だったから4度も差がある。
アスファルトの照り返しの威力だろうか。東京都心はこれ以上に高いんだろうな、きっと。そんなところに住んだり働く人はこれからますます大変である。
霧と言えば都会暮らしの身には石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」である。
裕次郎はファンでもなんでもなかったが、はしご酒で深夜にスナックあたりに引っかかると、歌詞そのものは気に入っていたので、時々マイクを握ったものだ。
基本的にカラオケは聞くのも歌うのも好きではなかったが、付き合いという事もあるし「夜霧よ―」「海は恋してる」「港町ブルース」「憧れのハワイ航路」「高原列車はいくよ」を持ち歌にしていた。
♪ただ一面に立ち込めた 牧場の朝の霧の海~♪ で始まる「牧場の朝」っていう曲が夏の高原のすがすがしさを称えていて、娘たちが小学生のころ毎年のように出かけていた北信濃のカヤノ平の牧場とブナの原生林を思い出させてくれて好きなのだが、カラオケにはそぐわない。
余計なものを隠してくれる霧という存在は、演歌でも映画でも、そして日常生活でも特別のものなのである。
大学生の時に太平洋を横断してロサンゼルスまでの船旅の最中に、昼間だったけれど、船の舳先にまん丸の虹がかかり、まさに真円の虹の冠を頂いた姿で船が進んでいくのを体験して、とても神秘的な気分に浸ったものである。
しかも、霧の海というのは音を吸収してしまうのか、乗っている本船のエンジン音まで消えてしまったかのような静けさだったので、ちょっと不気味な感じさえしたものである。
この時の旅ではサンフランシスコ湾に低く漂う霧まで見たのを覚えている。
やはり大学生か社会人になって間もなくだったと思うが、妻と車で遊びに出掛けた先の箱根峠で5メートル先も見通せないような濃霧に包まれてしまい、路肩の白線を頼りに霧が薄くなるところまで、おっかなびっくり超ノロノロ運転を続けるというオソロシイ目に遭ったことがある。
辺りが何一つ見えない乳白色のベールの中に放り込まれるのは、方向感覚はなくすし、ハンドルを握っているのに見えないという恐ろしさは格別なものがある。
冬の山形で車に乗せてもらっている時にホワイトアウトという雪国特有の現象に遭遇して、周囲はとても明るいのに、足下さえ見えず、天地さえ分からなくなるような空間に放り込まれ、やはり恐ろしい思いを味わったこともある。
視線を奪われ、何も見通せないばかりか、自分の姿勢すらどうなっているのかおぼつかないような状態に放り込まれる恐ろしさは、格別な恐ろしさである。
今また、国民を目くらましして視界を奪い、方向感覚まで奪いとって何が何だか分からなくしてしまい、その隙にやりたい放題、好き勝手をしようという動きが顕著ではないか。くわばらくわばらなのである。



夜霧よ~♪ 上から午後9時ころ、11時ころ、翌朝午前4時過ぎ。200メートルほどの丘の大半が消えてしまった