68回目だが、誕生日そのものに特別な感慨はない。
友人は壮絶な戦いの跡を残して旅立ってしまったし、今さら言う事でもないが、世の中ははかない。
こいつとなら終生付き合っていってもいいかなと思える友人はそれほど多くないが、そのうちの2人まで、あっけなく失ってしまった。
呆然とする思いだ。
そういう中で出来ることは、与えられた所に従って、しかあるがままに振舞い、生きて行く、という事だろうと思っている。
禅宗が大切にしている経の一つに金剛経があり、その中に、これまでことある度に心に刻んできた一節がある。
「応無所住而生其心」
まさに住するところなくしてその心を生ぜしむ、と読みくだす。
意訳すると、執着する心を捨て、常に生じる新しい状況に従って生きて行く、というようなことか。
これまでの実社会では時々、大きなダメージを受けるような、思いもよらない出来事に遭遇してきたが、落ち込み、へこむ度に心を切り替え、再び立ちあがるときに、この一節を思い浮かべてきたのだ。
「咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず 今を生きる」
これは仏教詩人の坂村真民の詩だが、その根底に流れるものは同じもののように思える。
そういうことなんだろうなぁ、と思っているんである。
ここのところ、改めてそのことを思い出しては気を取り直しているのだ。
元来がノー天気なのである。クヨクヨしたって始まらないじゃん、が持論で、ケセラセラと口ずさんでいたほうが性に合っているんである。
そうはいっても、へこむ時はあるもので、そういう時のための常備薬なのである。
円覚寺の横田南嶺管長もしばしば口にしてますな。
死というものはシャボン玉みたいなものです。生きている時はまあるい物体に見えるけれど、その外側を覆っているものが無くなると、シャボン玉も見えなくなってしまう。
しかし、それまで外側を覆っていた膜が消えてしまったからと言って、膜の内側に存在していた空気も一緒に消えてしまったわけではない。ただただ、周りの空気と混じりあってしまっただけで、本質は何も変わっちゃぁいないんです、と。
今回のブログは731回目のブログである。
つまり、2年前の誕生日から始めたブログが3周り目に入ったということである。
3年目も怒ったり悲しんだりしながら、ボケ防止とあわよくば三文の徳を期待して、勝手な思いをつづりつつ、憂さを晴らしていこうと思っている。
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