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雨の記号(rain symbol)

韓国ドラマ「朱蒙」から

 終章部を覆ってくる現代性

 「朱蒙」は全81話の長い歴史ドラマである。これを僕は何度か見終えているが、サッカーのワールドカップが始まった頃、30話あたりで中断していたのを再び見始め、昨日、最後まで見終えた。最後の10話ほどは寝不足をこらえながら見た。
 一度見たものをまた見るなんてどこが面白いのだろう、と考える人もいるだろうが、最初見たほどの衝撃はないかもしれないが、自分のたどった人生を推敲したり、昔の友を懐かしむようなよさがあることは確かだと思う。
 このドラマのラストで、若い頃、吉川英治の「三国志」を読んだのと似た感動をふと思い起こしたりした。
 何年かたったら、また見ることになるだろう。それほど好きなドラマとなった。
 81話もの長編ドラマである。視聴者を最後まで引っ張っていくには相当の工夫がいるが、スタッフはこれをうまくやり遂げていると思う。
 味付けの一は苛々、二にハラハラだったと思う。三にちょっぴり胸のすくような痛快さが混じっているといった按配だった(後半になるにつれ、一や二より、三の割合が増えてくる)。
 そのバランスの妙がこのドラマを最後まで導いていってくれるわけだ。
 前半と後半が分かれるのは、朱蒙が流民を引き連れ、建国に向けて夫余を脱出する辺りだと思われるが、前半に比べ、後半はストーリーの流れがやや足早になっている感がある。そのせいもあって、後半は一気呵成のまとめ見が出来るが、前半はそうもいかない感じが最初はした。
 しかし、二度三度と見直すにつれ、前半もけっこうストーリーの流れが速いのに気付かされてきた。話の余分なところをカットする術が身についているようである。
 じつは一貫したリズムの物語なのに、前半部は話の奥にある世界の咀嚼に僕らは知らないうち時間を奪われてしまうようだ(しばらくその世界に浸り続ける帯びドラマなどは、人生の姿と似てくるようです)。
 
 長いドラマのもうひとつの特徴としては、最初に示される世界観、固定観念、既成概念、思想性みたいなものが、回を追って色あせてきてしまうことである。それを覆いつくしてきてしまうのはひとことで言うと、現代性というお化けのようなものである。長編ドラマになればなるほどこの傾向に太刀打ちできなくなってくる。
 吉川英治の「三国志」でさえ、おしまいのところはその印象を持つから怖い。
 この「朱蒙」もその傾向からは逃れ得ていない。
 最初のうち、ものすごい影響力を持った神女が、終章にいたってはほとんど役割を失い、登場さえしなくなる。マウリョン神女が雷に打たれて死ぬところなどその象徴のように見える。場面としては「朱蒙」の台頭を抑えられないとの設定であろうが・・・皮肉なことである。
 僕の好きだったソリョンもヨミウルのような成長は見せず、最後などは影が薄くなり、登場さえしなくなった。
 
 最後の朱蒙と召西奴の別れも歴史の流れや事実はさておき、その精神性をつぶさに眺めてみれば一夫一婦制のキリスト教的なまとめに引っかけていると思われる。
 このドラマの、後味の清々しさや感動はその現代性から来るものだ。
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