かかる軍人ありきーー伊藤圭一.著、 さくら紀行より転載
(前川軍医の上司にあたる田辺大隊長の、その高い見識、精神性)
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昭和19年独立歩兵第124大本部の置かれていた
浙江省義烏へ、およそ風変わりな大隊長が赴任してきた。
風変わりーーと言うのは、その言動がまるで常識外れで、
初めのうちは部下の将兵からも頭がおかしいのではないか、
と思われたほどだったのでである。その大隊長田辺中佐は、
軍人にしては、洒脱で階級や、権威を誇示する気風がない、
と言って態度に厳正を欠くものでもなく、
いわば部下将兵にとっては従来見慣れてきた、
大隊長たちとは相当違った人間であることが、
その風貌を見ただけでもわかったのだ。
昭和19年の秋といえばグアム、テニアンが陥ち、
米軍はレイテに上陸していた戦況である。
しかし中支では戦勢好況を示していて、第7支団にしても
春のクシュウ攻略、秋の温州作戦と、
赫赫の戦勲をあげて将兵の意気とみに上がっていた。
田辺大隊長は赴任の直後、それらの大隊将兵を広島に集めて短い訓示をした。
ところがその訓示は全く彼らの意表を衝く内容だったのである。
大隊長はこういった。
命を得て本大隊の指揮を田辺が取ることになった。
諸子が勇壮な将兵であることよく知っている。
それについては何も言うところはない。
ただ一言だけ大隊長としての所見を述べると諸子らには気の毒だが、
この戦争は必ず日本が負ける。
諸子らの必勝の信念に水を差すわけではないが、戦争は間違いなく負ける。
したがって今後におけるわが大隊の方針は戦争に負けた場合にどうなるか、
を目標として研究し行動することになる。
皆よく大隊長の意を呈して協力して頂きたい。
この時点に、このような訓示を与えた指揮官は日本陸軍を通じて、
おそらく彼の外一人もいなかったはずである。
内心、敗戦の危惧を抱いているものはいたとしても、
それを公言する事は絶対になかった。
しかし田辺中尉は公言している。公言しただけではなく、
これも他のどの指揮官もやらなかった、独自の言動を強行実践し始めたのである。
頭がおかしいと言う風評がしばらく耐えなかったのもそのためである。
日本が必ず負けるーーと言う訓示は大隊の将兵を驚かせ呆れさせ、怒らせたが、
旬日ののちには、一兵に至るまで大隊長の信念が浸透した。
彼は敗戦を公言するとともに幹部将校を集めなぜに
日本が負けるかについての軍事、
政治経済各方面における該博な知識と見通しの下に明確にその結論を提示し、
完全に部下を圧服したのだ。
抵抗しようのない秀れた見識を持っていたのである。
このことで田辺大隊長の記録に触れておくとーーーー略ーーー
昭和11年、天津軍事司令部付。支那事変勃発後は参謀としてしばしば参謀付となり
特に暗号関係の権威として暗号班長を務めている。余談だが大東亜戦争間陸軍に関する限り敵側に暗号を解読された事例は1つもない。これは無論彼の卓抜な才能が預かって力となっている。昭和14年ノモンハン事件の最中に関東軍指令部付。
昭和15年春から16年にかけてソ満国境設定問題解決の為、満州側要人の資格で全権に随行している。昭和16年、第36師団下の大隊長として中原会戦に参加、17年山西省特務機関経済課長として敏腕をうたわれ、のち北京軍司令部の経済課に移り19年春には大東亜省調査官として南京、上海に駐在している。
つまり、戦況の対局を見る眼はこの変転の経歴の中で築かれている。
彼ーーは、辻政信参謀とは同期の親友、
辻参謀が陽の切れ者とすれば、彼は陰の切れ者である。
独歩、第124大隊長となった時にも、
やはり彼らしい切れ方をすることになったのである。
中国における日本の駐屯方式は一定地に駐屯して周辺の討伐と治安を続け、
年に何度か大作戦をやって敵を叩く、と言う万遍ない繰り返しに尽きていた。
しかし田辺大隊長の場合は
この討伐行動行動をまず初めに全面的に放棄してしまっている。
つまり自身の警備地区内における戦闘行動を一切終熄せしめたのである。
戦争が終わってしまったのである。
田辺大隊長は幹部将兵を説得する時、
自身が大東亜省物質動員の任に当たっていた経験から、
日本軍の苦境が手に取るようにわかっていた、その点を力説した。
どう計算しても勝算は無い。
とすると、いずれは米軍が中国大陸に上陸してくると予想しなければならない。
その時どうするか。
方法は1つしかない。駐屯地の住民の協力を得ることである。
「このままだと、敵が上陸してくる時、前面からは艦砲射撃、
後方からは中国人民のゲリラ活動に悩まされなければならない。
したがってまず中国内での戦争を停止させる必要がある。
それのみならず、いざ戦闘間、我々が地下陣地で抵抗しても
住民が握り飯を運んでくれるようにならねば、
絶対に対米戦はできない。こんな事は常識ではないか」
とその時大隊長は言った。確かに理路整然としている。
「ではそれについて部隊長は具体的にどのような方策をお持ちなのですか」と、
一幹部が説明を求めたが、これは理屈ではわかっていても、
大隊長の腹案を探りたいとする人情からである。
また大隊長危険人物と疑っていたためでもある。
すると大隊長は警備地区を巡視した感想を述べた後で、
「とにかく、遮断壕を埋める事から始めよう」と言った。
それで幹部たちは驚いた。
遮断壕を埋めると言う事は、
鉄道を匪賊の跳梁にさらすことに他ならなかったからである。
遮断壕と言うのは、鉄道防護のためにその沿線に堀ぬかれているもので、
これは大隊の警備地区だけでも20里に及んでいる。
司令部からはこの壕を掘り掘り広げよ、と言う示達がきたばかりだが、
それを埋めると言うのである。
「遮断壕など百害あって無益だよ、埋め立てて見ればそれがわかる」
と大隊長は確信を見せて言った。
遮断壕はそれを掘開するのに膨大な人力と費用を要したし、
その上大切な耕地をつぶしている。
村と村の交通はできず、補修にも金と人力がかかり続ける。
それでいて匪賊は壕の向こう側から汽車に発砲する。ゲリラは結構潜り込む。
おかげで乗客は駅で乗降にも憲兵からこづかれながら、
荷物を検査されねばならない。
この壕は敵を防ぐようよりも、むしろ住民と日本軍を疎隔するのに役立っている。
というのが大隊長の見解であった。
「そのような施策は軍が許可してくれないでしょう」と、幹部はなお疑いを持った。許可するよう説得するさ。
味方と戦うこともまた戦争の一部だと俺は思っている」
2021 5/21