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恩讐を超えて(7) 久方ぶりに会津と長州、二本松、三春藩


久しぶりの「恩讐を超えて」
会津と長州、戊辰戦争のこの歴史に関心を持ちはじめて、次の様な流れになっていきました。原発事故、避難支援、日中友好さくら植樹、マチュピチュ村、安達太良山、二本松少年隊、白虎隊、明治維新、三春、一ノ関、伊達藩、毛利元就、三本の矢、福島出身三兄弟力士、白虎隊生き残り飯沼さん、ウクライナ支援、、。
(最初の部分は、日中友好さくら植樹プロジェクト関係ーカテゴリ「さくら紀行」に、述べています)

この流れは、後になってそういう事だったのか、
と、分かったものであり、
当時はその流れの中にいた事には気付いていませんでした。
ご縁とは当事者の知らない中で、
全ては必然で繋がっているのを感じています。

最近になり、知人の繋がりで、ご先祖又当人が会津出身だったと
いう人が何人か現れています。

今、三春の有名な滝桜の開花を前に三春藩について、述べてみたいと思います。
三春藩は戊辰戦争時に、羽越列藩同盟に加盟していました。
戦いの中で新政府軍が錦の御旗を、奉じていることを知ります。

このことから、新政府に逆らう事はできないとして
方向転換します。
この錦の御旗が偽物、という話がありますから、
そうだとすれば新政府軍に騙された、という事になります。
最初から内通していたのでは無く、その流れので、
已むを得ず方向転換したのであり最初から企みを持っていたのではありません。

このことから、三春は犠牲者を出さずに済んでいます。
戦争反対する人の、国のために命を捧げる事はできない、、
といっている事と同じです。脱藩したとしても責める事は出来ません。

列藩同盟は劣勢が明らかになって白旗を掲げたにも関わらず、
新政府軍は執拗に蝦夷まで追い詰めました。
(ここでは新撰組の土方歳三が亡くなっています)
何故、追い詰めて全滅させなければならなかったのか?

明治維新前は、南朝北朝、藩同士の権力争いの中にありました。
江戸時代は泰平、と言われて比較的争いが少なかったのですが、
戦国時代と言われる1500年代以降は、
血生臭い争いがあったのです。

毛利元就は初代の長州藩主ですが、
その孫の輝元は、とんでも無い独裁者、、
正室がいましたが子供はありません。
後継者云々前に、かなりの女好き、人妻を横取り
言うことを聞かない近親者は殺されていきます。

関ヶ原の戦いではリーダー的役割があったにも関わらず、
後方で陣取ってはいたものの、戦いらしい戦いはしておらず、
衰退していったとのことです。

この輝元が無理矢理側室にした姫は、「二の丸様」と言われ
三人の子供をもうけながら、手元で育てる事は叶わず、
薄幸の生涯を閉じました。

明治維新前、会津藩は朝廷の守護職を請われ松平容保は、会津の手薄になる不安を持ちながらも、
朝廷に尽くしていました。

会津、鶴ヶ城は戦国時代の頃から城主が短期で代わっています。
松平容保も会津人では無く、
天領会津はその時の戦果に応じて、代えている様です

朝廷の守護職を引き受けたものの、当時、朝廷を巡って敵味方、
或いは、今日の友は明日の敵、という戦いがくり広げられていました。その容保の周辺の警護に新撰組がついていたのです。

無血開城(と言われている)に至ったのは後に官軍になる、
長州、薩摩、土佐藩の謀略の結果で、徳川家は幕府の座から下ろされ(逃げた)
たため、守護職会津藩は後ろ盾を失います。
列藩同盟も白旗をあげますが
執拗に新政府軍となった
官軍に追われたのです。

長州藩の情け容赦のない戦中の仕打ち、
その中で、敗れた会津藩の藩士の亡骸は、
弔っては行けないと言うお触れ(真実か?)や、
捕えた婦女子を辱め、「Japaaan-踏み躙られた貞操」の記事からも
いつの世も、負けたものは非情な仕打ちに合う、、と言うことがわかります。

白虎隊は飯盛山に集まった時にお城が火の包まれているのを見ます。
落城したと悟った少年たちは、
城に向かって、戦おうと言う決定をしますが、
リーダー格が、戦いは負けた、今行っても敵陣に捉えられる、
捕らえられて辱めを受けるより、最後まで義を尽くすほうを選ぶのが武士たるもの、、と、言います。
議論が交わされたのですが最終的に会津の教えの忠義を選んだのでした。

これらのことも、「炎に囲まれたお城を見て」負けを認め切腹、
と簡単な内容で伝わっています。

これらの事実は白虎隊生き残りの飯沼さんの遺品から判明したそうです。
飯沼さんは生き残りその後、敵だった長州藩の助けを持って再起(そのことは著書に)会津人から恨まれたそうです。
飯沼氏もその両藩の狭間で苦しみもありました。
今でも誤解されている様で、
その関係の講演、話は、会津では受け入れられていません。
先刻は山口の人から「長州藩は小狡い」と言われたがどう思いますか?
と聞かれました。
その手の話は、旧両藩の地でたくさんあります。
だからこその、恩讐を超えて、、和解を、、と。


白虎隊の武士道精神は後に、間違って受け取られるようになり、
第二次世界大戦、特攻隊に利用されてしまいます。

その戦争が始まる前に、ドイツとイタリア
(民間使か公使かはわかりません)から寄贈物が送られています。
三国同盟に関係あるのでしょうか?

一方二本松少年隊は13歳から、初陣ながら実戦しています。
流石の新政府軍もあどけない子供だった事に驚愕しています。
初陣出陣にはそれぞれのドラマがあり、涙を禁じ得ません。

自分のお城、領地を守るため戦い続けそれを正義と信じていた人達は、果たしてあの世で成仏できているのでしょうか?

資料館で見た
「俺たちはどこに行けば良いのか、どこに、、、?」の文字から、
あの世で無念さで霊が彷徨っているのではないかと思い、胸に迫りました。

会津も長州も、敵であった藩士のお墓を建て弔っています。
敵味方関係なくその魂の尊厳を護っている事が救いです。

長州会津の和解が日本のこれからに
大きく影響するのではないかと予感がします。

そうあって欲しい、、
その様な思いで、続けています。

(活動途上故、史実に間違いがあるかもしれません、ご了承ください)

2022  3/31

















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